『となりのヨンヒさん』(チョン・ソヨン:著、吉川凪:翻訳) [読書(SF)]
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時折、ほんの時たま、私は規則正しい呼吸をしながら寝ている子供の手を握り、ナミのことを思う。外交官になったナミ、結婚式を挙げるナミ、小じわのできた顔でにっこりするナミを想像する。そしてそんな時にはちょっと利己的に、でも限りなく痛切に、私がこの子にとって最初にならないよう祈る。いつかこの子が誰かを失わなければならないなら、悲鳴のような記憶として残り、残像のように漂う愛に苦しむ時が来るのなら、それが私でないことを。私が、誰にとっても最初ではないことを。
――――
単行本p.135
アリス・シェルドンとのお茶会、隣室に住んでいる異星人、デザートとばかり交際する女性。同性愛、差別、離散家族などのテーマをSFやファンタジーの設定を使って描き出した15篇を収録する短編集。単行本(集英社)出版は2019年12月です。
――――
私はそれぞれの作品のどの部分が〈現実の私〉から来ているのかを示すことができる。
しかしこれらの物語はすべて〈小説〉であり、こうして本になった以上、私の経験の断片ですら、もはや私のものではない。作家は言葉を大事にするほど、そして作品から遠く離れているほどいいと思う。それでも敢えて言わせていただくなら、私の文章があなたにとって慰めになることを願っている。私は誰かを慰めるものを書きたかった。
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単行本p.246
〔収録作品〕
『デザート』
『宇宙流』
『アリスとのティータイム』
『養子縁組』
『馬山沖』
『帰宅』
『となりのヨンヒさん』
『最初ではないことを』
『雨上がり』
『開花』
『跳躍』
『引っ越し』
『再会』
『一度の飛行』
『秋風』
『アリスとのティータイム』
――――
「お嬢さんは、どの支流から来たのかな。SF小説が好きだというのが本当なら、ひょっとしてあなたの世界にジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人がいませんでしたか?」
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。フェミニズムSF小説の先駆者、本名はアリス・ブラッドリー……シェルドン。
私は椅子から飛び上がった。
――――
単行本p.34
「私は七十四番目の世界でアリス・シェルドンに出会った」
あちこちの並行世界を行き来する語り手が出会ったアリス。それは、SF作家にならなかったアリス・シェルドン、別の世界ではジェイムズ・ティプトリー・ジュニアとも呼ばれている女性だった。なぜこの世界のアリスは作家になることを断念したのか。「アリスとのお茶会」という奇妙な状況を使って先達の人生に対する敬意を示す短篇。
『養子縁組』
――――
私は二人の異星人の顔を凝視しながら、十万日以上の歳月を過ごしてもまだ完全に理解できない彼らの感情について、数百万人に銃を向け、地面を血で染めた後も、自分たちが死ぬまで少しも成長しないはずの子供を育てようとする人たちの人間性について考えた。そして私の夢に現れる、そんな異星人たちの顔を思い浮かべた。
――――
単行本p.60
太古の昔から人類にまぎれて生きてきた長命な異星人。その存在に気づいた人類は彼らを激しく憎む。異星人のひとりである語り手は、正体がばれれば殺される危険があるため慎重に身を隠して人間のふりをして生きている。だが、親友が養子にして育てている赤ん坊が自分たちと同じ種族であることに気づいたとき、彼女は決断を迫られる。はたして愛は、差別や排外感情を乗り越えることが出来るのだろうか。
『となりのヨンヒさん』
――――
「じゃあ、本名は何というんですか?」
「地球では言えません」
「そう言わずに、教えてよ」
「本当です。大気の成分が違います。気圧が違います。正確に表現することができるせん」
「おおざっぱには言えますか?」
またしばらく沈黙が続いた。諦めたスジョンが再びコンテを持とうとした瞬間、ヨンヒさんがスジョンの方に向き直り、じっと見た。スジョンは今でもヨンヒさんの眼がどこにあるのか、はっきりとはわからなかったものの、絵を見る時のようにスジョンを凝視していることは、ありありと感じられた。二人の間にある、せいぜい二、三歩で歩ける距離の空気が振動し、ヘアドライヤーの風が当たったみたいに眼の周りが熱くなった。何かがゆらっと光って、消えた。瞬きしながら見た。そこはかとない熱とぼんやりした残像が、まつ毛に引っかかったみたいにちらちらした。
――――
単行本p.110
格安で部屋を借りることが出来た語り手。その理由は、隣室に住んでいるのが異星人だからだ。みんなから嫌われ恐れられる異星人。だが語り手は、イ・ヨンヒと名乗るその異星人と少しずつ交流を深め、曖昧ながら友情を感じるようになってゆく。だが別れは唐突だった。
『開花』
――――
良い世の中になったと思いますか。もう姉の名前が検索禁止ワードではなく、うちが要監視家庭ではないというのは、確かにいいですね。さあ。他はまだわかりません。父の数値も下がらないし私の給料が上がったわけでもないし、何より、姉は帰ってこなかったじゃないですか。
でもあの日、あの〈開花〉は見事でした。テレビとモニターと監視カメラの赤いランプが一斉に消えた夜、花をぱっと開いて一度に咲き出した赤い花は、本当にきれいでした。ベランダの外に顔を突き出して赤い花びらがいっぱい揺れる花壇を見下ろしながら、私は初めて、姉を理解できるような気がしました。
――――
単行本p.169
検閲のないネットワークを広げようとする非合法活動により逮捕された姉。なぜ姉がそんな危険な活動に身を投じたのか理解できない語り手。だが姉と仲間が撒いた種(文字通り)はあちこちに散らばって一斉に開花する。ネットがすべて監視と検閲の対象となっている国で、匿名性が守られたフリー無線ルータを街のあちこちにゲリラ的に設置してまわる非合法ハクティビストたち、というサイバーパンク英雄神話を改めて語り直す物語。
『秋風』
――――
「……どうして?」
しばらくしてから私が聞いた。昔と同じように。私はあの子の声が聞きたくて、いつも自分の方から先に話しかけていた。どうして嘘の報告をしたの。どうして私を引き止めないの。どうして一緒にここを出ていかないの。どうして私を愛さないの。どうして私を愛しているの。
あなたの大切なナダルのトマト畑を死の影のように覆う霧雨を見ながら、〈気温二十五度。晴〉と記入する時、あなたは何を考えていたの。
――――
単行本p.241
農業生産に特化、最適化された惑星で、農作物の出荷量が減少を続けている。もしや作物が密輸業者に横流しされているのではないか。事態を重くみた本社は、腕利きの監査員をその惑星に送り込む。だが語り手である監査員はその惑星の出身だった……。恒星間航行を独占する巨大企業、それにより支配されている宇宙を舞台とした連作のひとつ。
時折、ほんの時たま、私は規則正しい呼吸をしながら寝ている子供の手を握り、ナミのことを思う。外交官になったナミ、結婚式を挙げるナミ、小じわのできた顔でにっこりするナミを想像する。そしてそんな時にはちょっと利己的に、でも限りなく痛切に、私がこの子にとって最初にならないよう祈る。いつかこの子が誰かを失わなければならないなら、悲鳴のような記憶として残り、残像のように漂う愛に苦しむ時が来るのなら、それが私でないことを。私が、誰にとっても最初ではないことを。
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単行本p.135
アリス・シェルドンとのお茶会、隣室に住んでいる異星人、デザートとばかり交際する女性。同性愛、差別、離散家族などのテーマをSFやファンタジーの設定を使って描き出した15篇を収録する短編集。単行本(集英社)出版は2019年12月です。
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私はそれぞれの作品のどの部分が〈現実の私〉から来ているのかを示すことができる。
しかしこれらの物語はすべて〈小説〉であり、こうして本になった以上、私の経験の断片ですら、もはや私のものではない。作家は言葉を大事にするほど、そして作品から遠く離れているほどいいと思う。それでも敢えて言わせていただくなら、私の文章があなたにとって慰めになることを願っている。私は誰かを慰めるものを書きたかった。
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単行本p.246
〔収録作品〕
『デザート』
『宇宙流』
『アリスとのティータイム』
『養子縁組』
『馬山沖』
『帰宅』
『となりのヨンヒさん』
『最初ではないことを』
『雨上がり』
『開花』
『跳躍』
『引っ越し』
『再会』
『一度の飛行』
『秋風』
『アリスとのティータイム』
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「お嬢さんは、どの支流から来たのかな。SF小説が好きだというのが本当なら、ひょっとしてあなたの世界にジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人がいませんでしたか?」
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。フェミニズムSF小説の先駆者、本名はアリス・ブラッドリー……シェルドン。
私は椅子から飛び上がった。
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単行本p.34
「私は七十四番目の世界でアリス・シェルドンに出会った」
あちこちの並行世界を行き来する語り手が出会ったアリス。それは、SF作家にならなかったアリス・シェルドン、別の世界ではジェイムズ・ティプトリー・ジュニアとも呼ばれている女性だった。なぜこの世界のアリスは作家になることを断念したのか。「アリスとのお茶会」という奇妙な状況を使って先達の人生に対する敬意を示す短篇。
『養子縁組』
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私は二人の異星人の顔を凝視しながら、十万日以上の歳月を過ごしてもまだ完全に理解できない彼らの感情について、数百万人に銃を向け、地面を血で染めた後も、自分たちが死ぬまで少しも成長しないはずの子供を育てようとする人たちの人間性について考えた。そして私の夢に現れる、そんな異星人たちの顔を思い浮かべた。
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単行本p.60
太古の昔から人類にまぎれて生きてきた長命な異星人。その存在に気づいた人類は彼らを激しく憎む。異星人のひとりである語り手は、正体がばれれば殺される危険があるため慎重に身を隠して人間のふりをして生きている。だが、親友が養子にして育てている赤ん坊が自分たちと同じ種族であることに気づいたとき、彼女は決断を迫られる。はたして愛は、差別や排外感情を乗り越えることが出来るのだろうか。
『となりのヨンヒさん』
――――
「じゃあ、本名は何というんですか?」
「地球では言えません」
「そう言わずに、教えてよ」
「本当です。大気の成分が違います。気圧が違います。正確に表現することができるせん」
「おおざっぱには言えますか?」
またしばらく沈黙が続いた。諦めたスジョンが再びコンテを持とうとした瞬間、ヨンヒさんがスジョンの方に向き直り、じっと見た。スジョンは今でもヨンヒさんの眼がどこにあるのか、はっきりとはわからなかったものの、絵を見る時のようにスジョンを凝視していることは、ありありと感じられた。二人の間にある、せいぜい二、三歩で歩ける距離の空気が振動し、ヘアドライヤーの風が当たったみたいに眼の周りが熱くなった。何かがゆらっと光って、消えた。瞬きしながら見た。そこはかとない熱とぼんやりした残像が、まつ毛に引っかかったみたいにちらちらした。
――――
単行本p.110
格安で部屋を借りることが出来た語り手。その理由は、隣室に住んでいるのが異星人だからだ。みんなから嫌われ恐れられる異星人。だが語り手は、イ・ヨンヒと名乗るその異星人と少しずつ交流を深め、曖昧ながら友情を感じるようになってゆく。だが別れは唐突だった。
『開花』
――――
良い世の中になったと思いますか。もう姉の名前が検索禁止ワードではなく、うちが要監視家庭ではないというのは、確かにいいですね。さあ。他はまだわかりません。父の数値も下がらないし私の給料が上がったわけでもないし、何より、姉は帰ってこなかったじゃないですか。
でもあの日、あの〈開花〉は見事でした。テレビとモニターと監視カメラの赤いランプが一斉に消えた夜、花をぱっと開いて一度に咲き出した赤い花は、本当にきれいでした。ベランダの外に顔を突き出して赤い花びらがいっぱい揺れる花壇を見下ろしながら、私は初めて、姉を理解できるような気がしました。
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単行本p.169
検閲のないネットワークを広げようとする非合法活動により逮捕された姉。なぜ姉がそんな危険な活動に身を投じたのか理解できない語り手。だが姉と仲間が撒いた種(文字通り)はあちこちに散らばって一斉に開花する。ネットがすべて監視と検閲の対象となっている国で、匿名性が守られたフリー無線ルータを街のあちこちにゲリラ的に設置してまわる非合法ハクティビストたち、というサイバーパンク英雄神話を改めて語り直す物語。
『秋風』
――――
「……どうして?」
しばらくしてから私が聞いた。昔と同じように。私はあの子の声が聞きたくて、いつも自分の方から先に話しかけていた。どうして嘘の報告をしたの。どうして私を引き止めないの。どうして一緒にここを出ていかないの。どうして私を愛さないの。どうして私を愛しているの。
あなたの大切なナダルのトマト畑を死の影のように覆う霧雨を見ながら、〈気温二十五度。晴〉と記入する時、あなたは何を考えていたの。
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単行本p.241
農業生産に特化、最適化された惑星で、農作物の出荷量が減少を続けている。もしや作物が密輸業者に横流しされているのではないか。事態を重くみた本社は、腕利きの監査員をその惑星に送り込む。だが語り手である監査員はその惑星の出身だった……。恒星間航行を独占する巨大企業、それにより支配されている宇宙を舞台とした連作のひとつ。
タグ:その他(SF)
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