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『猫沼』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

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「痛い」と言わずとも症状をいちいち、残している。なので読者には私の生命の人間の本質的部分だけ伝わっていた。勝手に言うがそれが私の文章の良いところなのだ。構造のない細部が真実を伝えるというのを実践して来て、自分のだるさや難儀さが他人と違うものだとは理解出来なくても人には通じた。同時に、同じ病気の読者が複数三十年来熱心に読んでくれていたという驚き。
 私には大きな幸福はない。ただ幸福な細部が世間の見過ごしてくれるような小さい猫幸があちこちにあった。ひとつ、読者に言葉が通じる事、ふたつ、猫が身体的仲間になっている事、みっつ、バスで行けるところに難病の専門病院が不思議とあった事、さいご? 最初は心細かったはずの沼際がこうして故郷になっている事。
 そう、沼は、故郷になっている。けして第二のではない。育った土地には最初から私のいる場所などなかったのだから。
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単行本p.61


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第136回。


「今からまた一緒に夜を越えてゆく ここは猫沼 約束の地」
(初版限定付録、カラー猫写真帖16P『猫沼二十年』より)


 ギドウとの別れ。そしてピジョンとの出会い。これまで共に暮らした猫たちとの生活を見つめる最新長編。単行本(ステュディオ・パラボリカ)出版は2021年1月です。

 キャト、ドーラ、モイラ、ルウルウ、ギドウ、ピジョン。これまでの作品にも書かれてきた猫たちとの関わりに加えて、今回はじめてギドウとの別れ、ピジョンとの出会いが詳しく書かれます。そしてピジョンとの「なぜこんなたわけた態度が私はとれるのか」(単行本p.46)という暮らしの細部……。あと目次のルビがすごい。

 これまでもいつも私小説のなかに猫はいたわけですが、本書を読んで興味を持った読者のために、特に関係が深いと思われる作品を挙げておきます。

『猫道 単身転々小説集』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-03-16

『愛別外猫雑記』
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-22

 他に『S倉迷妄通信』『おはよう、水晶-おやすみ、水晶』そして荒神シリーズ『猫トイレット荒神』『猫ダンジョン荒神』『猫キャンパス荒神』『猫キッチン荒神』と追ってゆくという、まずは猫小説として読んでゆく猫ルートはお勧めのひとつ。猫道あゆんで猫沼にはまって、そこからだ。

 というわけで、ひさしぶりのかなりストレートな猫小説です。何らかのかたちで猫保護活動に関わっている方で『愛別外猫雑記』という本は話題になったので昔読んだし今も覚えている、という方にも、その後を書いた本書の一読をお勧めします。


〔目次〕

1. 猫住(ねこずまい)
2. 猫移(ねこうつり)
3. 猫幸(ねこざいわい)
4. 猫隠(ねこがくれ)
5. 猫活(ねこもとめ)
6. 猫再(ねこふたたび)
7. 猫生(うまれかわった)
8. 猫再(うちのこです)
9. 猫現(あたし、来てよ!)
10. 猫沼(ねこにおぼれて)
11. 猫続(あとがきではなく)




1. 猫住(ねこずまい)
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 家は内側が良い内側があれば良い。殊にそこに猫がいれば何の問題もない。しかし、そんな内側の何が良いというのか? 実際に日当たりが? いいのか、悪いのか? この家の実に微妙な光の射し具合の中毎日長年私はけして飽きもしない。少しでも暇があれば、ただぼんやりと何もない壁や古いカーテン、埃まみれの家具や水晶を眺めて、うっとりと変わらぬ時間の中に横たわっていたい。
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単行本p.15

 猫といっしょに暮らすために沼際の家を買ってから二十年。ローン、難病、加齢、やっかいごと。でも今ここに最後の猫がいる、ピジョンがいる。


2. 猫移(ねこうつり)
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 というかこの半生、そもそも猫は私の生命に根拠をくれている。私が死なないのは猫がいるからだ。朝起きて歯を磨けるのも猫様のお力だ。
 どの猫も多大な恩恵を与えてくれた。みんなで暮らそうと私は叫ばせて貰い、猫国民になった。思えば家を買ったあれが幸福の絶頂であった。私はただただしたかったことをした。出来なかった事が出来た。助けたかったから助けた。むろんそこまでが限界、でも限界までした。友達に囲まれ幸福は永遠と思っていた。歳月は流れた。
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単行本p.33

「私は猫に宿を借りている。寄生もしている。」
 これまでの引っ越し、特に猫と出会い、猫を助けようと必死になった引っ越しを振り返る。沼際の家に落ち着くまでの歴史。


3. 猫幸(ねこざいわい)
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 売り上げで文学や芸術をはかり、文芸誌や文学賞をなくせという声を自発的に批判する運命(使命)になり、やがて次第に、世の中の仕組みが書けるような隅っこの社会派になっていった。ネオリベラリズムという言葉が流行する前に、私はネオリベラリズムへの警鐘を鳴らしていた。ネットで純文学のカッサンドラーと呼ばれ、まあそれでこんな時代になれば一年一、二回でもデモにも行くわけで。
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単行本p.58

 子供時代から現在までの人生を振り返り、手に入れた「世間の見過ごしてくれるような小さい猫幸」について語る。作家と猫たちの扱われ方が重なって、読者は泣く。言葉は通じる。


4. 猫隠(ねこがくれ)
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――家に帰るとギドウさんは寝ていなくて、ただただ満足そうに、無事に帰ってきた私を見た。お勤めしていたとき私はギドウさんが無事かどうかと、心配するのは自分の方だけと思い込んでいたけれど、その時に彼もやはり、私が無事帰ってくるかどうか心配していたかもしれないという事に気づいた。
 自分が死ぬ時はあのチューリップ畑から帰ってきてそして家に帰ると、ふと、全部の猫がいる、そういう事だと、ギドウを撫でながらその日納得した。
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単行本p.72

 キドウの思い出、そして別れ。


5. 猫活(ねこもとめ)
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「この方は王様の猫のようです、王族みたいです」と猫を届けてくださったシェルターの代表がつくづく惜しむように、私に打ち明けた。人間には慣れているし、そんなに飼いにくい猫ではないはずだと。だけど、ただひとりの人を求めて、食を絶ち死のうとした、と。
「この方はご用命があまりにもしばしばで、ずっーと、私だけをお呼びになられまして」
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単行本p.86

 猫たちの思い出を背景に、いよいよピジョンが中心となる後半へ。


6. 猫再(ねこふたたび)
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 生まれ変わりなど、ない。それでもただ、猫は帰ってくる、帰ってくる、帰ってくる、だから出会うのだ、再び、と心が思う。なんとかなる、なんとか……。
 生命は体の欲望であって自分では止められない。そこに理性はないけれど生きる理由がある。信じればまたいつか私は、猫と幸福に生きられるのだと、万が一でも幸福が来ると信じるだけである。いつもそうなのだ。
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単行本p.92

 猫が死んでしまう。猫がいない生活。その苦しみ。猫の不在という過酷さ。自分の体験も思い出す。


7. 猫生(うまれかわった)
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 しばらくすると、猫神様が私の夢枕に立つようになった。大丈夫、生きられるから、と。私が絶望したとき彼は沈黙し夢にも出てこなくなる。要するに私は生き返りつつあった。
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単行本p.119

「家の中がたてもよこも空っぽで猫がいない。自分というものも「ない」。」
 猫不在地獄からの生還途中。ネットで見つけた里親サイトにその猫の写真が。ついにピジョンと出会ったのだ。


8. 猫再(うちのこです)
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 もし一生ご飯を送ってもピジョンは私が誰かまったく知らない。もし二三度会ったところで私とは判らない。私はけして、自分が目立ちたいわけでも感謝されたいわけでもない、ただピジョンが何も知らずに食べているという事が異様に辛いのである。という事は愛情も届けたいという心境になっていた。しかしその時点でたかがそんなもの自己都合の脳内愛情に過ぎないのだ。というか猫缶少々で恩着せがましい。
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単行本p.142

 猫シェルターに連絡をとってピジョンの養親となる。ピジョンのために寄付し、食べ物を贈る。やがて「私はピジョンに知られたいと思うようになっていた」。


9. 猫現(あたし、来てよ!)
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 だからこそ、私は言っている。信じてしまっている、この無垢の尾力を、そうだったのかい、君は、……。
 声が勝手に出ていた。「前に、昔、この子はここにいた子なんで、多分生まれ変わり」、「モイラ、モイ、ラ、モイ」、壊れた機械のよう、判っている初対面の人間に言うことではないましてや。
 むろん人前、私は泣かない。積年の凍結霜が一気にはがされ、内心は絶叫してしまっていた。でもその時はまだ、この猫が雌というのさえ知らなかった。さらにここで初めてブログの情報が呼応してきた。この子、推定とはいえ、モイラの死んだ年の生まれなんだ。しかも程なく……。
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単行本p.157

「思考の速度として生命のみなぎりとして揺らし、さざめかせるもの」
ついに沼際の家にやってきたピジョン。そのちっぽぷっくんぷっくんを見て悟る。この子はモイラの生まれ変わり。

ちなみに月刊ねこ新聞(猫新聞社)2018年1月12日号(No.215)に掲載されたエッセイにもこのことが書かれていました。紹介はこちら。

『モイラの「転生」』(笙野頼子)
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-01-18


10. 猫沼(ねこにおぼれて)
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 だってここには罵声も命令も侮辱も監視もない、食卓で給仕をしなくてもいいし、言葉尻を捕らえられて泣くまで追求されなくてもいい、自分の領域があり、それが私の国家である。しかも孤独はなく言語があり、仲間が、猫がいる。要するに猫と私にはここが天下であり、生きている限りこの反グローバリズムの辺境の中ただひたすら自分勝手にしていくだけである。この嫌な世の中にそれこそが抵抗だ。
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単行本p.186

 猫と暮らす生活を取り戻し、猫沼にひたすら沈んでいく。ついに家に帰れた人間と猫の幸福。


11. 猫続(あとがきではなく)
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 どこに行きたかった? どこかに、それはどこ?
 ここに来たかった。自分の家を探してさ迷っていた。
 まだみぬ家族を求めてそれは、キャト、ドーラ、ギドウ、モイラ、ルウルウ、今は?
 ピジョンといる。この子はどういう子? 多分、「末っ子の赤ちゃん」この人を看取ったら後はいないけれど今を精一杯生きるしかない。
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単行本p.201

 十章で終える予定の原稿のゲラを待っているあいだに起きた「これを書き加えずにいられないという出来事」。「生きている間、人は日常を終えることなど出来ないのだ」。常に現在進行形の途中報告である笙野文学はむろん完結することなく続いてゆく。人生と同じく。





タグ:笙野頼子
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