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『サキの忘れ物』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

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 転職を考えようにも、今は疲れているから検討を避けていた。新しい判断すべきこととして持ち上がってくるその求人は、むしろ疎ましいとさえ言えた。何も考えたくなかった。できればこの場からしばらく消えたかった。意識を一時的に消滅させ、腹も空かず排泄もしない存在として、二か月ほどいなくなりたかった。
 宝ビルは、私の考えていることを受け入れるでもなく、はねつけるでもなく、そこに建っていた。(中略)ここで打算なく自分を許して放っておいてくれるのは、この隣のビルだけなのではという気がした。
 突然目の前の建物への親しみが自分の中にこみ上げてくるのを感じた。自分はこんなにこの建物に対して強い感情を持っていたのかと思った。その内訳や内実についてはいっさい説明できないにもかかわらず。
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単行本p.200、201


 喫茶店、行列、隣のビル、それから、ガゼル。ネグレクトからパワハラまで、しんどい世の中のしんどさと小さな希望のようなものを描いてみせる最新短編集。単行本(新潮社)出版は2020年6月です。


〔収録作品〕

『サキの忘れ物』
『王国』
『ペチュニアフォールを知る二十の名所』
『喫茶店の周波数』
『Sさんの再訪』
『行列』
『河川敷のガゼル』
『真夜中をさまようゲームブック』
『隣のビル』




『サキの忘れ物』
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 文庫本なんて初めて買った。読めるかどうかもわからないのに。明日になったら、どうしてこんなものを買ったのと思うかもしれないけれども、それでもべつにいいやと思える値段でよかった。
 いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。それで自分が、何にもおもしろいと思えなくて高校をやめたことの埋め合わせが少しでもできるなんてむしのいいことは望んでいなかったけれども、とにかく、この軽い小さい本のことだけでも、自分でわかるようになりたいと思った。
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単行本p.24


 親からも先生からもまともに扱われず、世の中の大切なことを何ひとつ教えてもらえないまま高校をドロップアウトしてしまった若者が、ふとしたきっかけでサキとかいう人の本と出会う。はじめて自分でお金を出して買った本。はじめて最後まで読んだ本。その小さな出会いが、彼女の人生を大きく変えてゆく。




『Sさんの再訪』
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 Sさん、Sさん、Sさん、そして、Sさんその2。私は、誰が誰かを懸命に思い出そうとしてみたが、どうにも無理だった。そして、自分のグループの女の子たちは、私以外はみんなSというイニシャルだったことを思い出し、呆然とした。なんということだ。いや、五十音順でクラスが振り分けられた一年のグループをそのまま卒業まで持ち越したから、仕方がないと言えるのだが。当時の私は、Sさんをこれだけ登場させておいて、どのSさんが誰かをわかっていたのだろうか。私は日記を読み返すということはせず、ただ心に澱の溜まるままに書いていたから、おそらく書いたその日に見分けられていれば十分だったのだろう。いったいどのSさんが、私が会おうとしている佐川さんなのか。
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単行本p.96


 大学時代の友人である佐川さんと数十年ぶりに会うことになった語り手は、当時の自分の日記を読み返してみる。ところが登場する他人の名前がみんな「Sさん」。よく考えたら知人はみんなイニシャルがSだった。どのSさんが佐川さんなのか。推理しながら読むうちに、当時は見ないようにしていた色々なことが判ってくる。




『行列』
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 なんにしろ、この行列に並ぶと、二十世紀の東京五輪以来の来日となるあれを見るという貴重な経験と、並んでいる間に見る美しい景観の思い出と、特製のお弁当と、行列に並んだ人間しか手に入れられない有名ゲームの限定キャラクターと(私はゲームはやらないけど)、十二時間もあれを見るために並んだという経験と、さまざまなものがいちどきに手に入る。時間は長いけれども、とても良いアトラクションではないだろうかと、行列に並ぶことを決めた私には思えたのだった。
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単行本p.108


 あれが来日して無料で一般公開されるということで行列に並ぶ人々。予想される待ち時間は十二時間。それでも様々な特典やイベントや景観やなんやかやにつられて行列に並んだ語り手。だが次第に心が削られてゆく。自己中心的な人々のこずるい振る舞い、いらっとくる他人の言動、つのるがっかり感。何のためにこんな思いをしてまで行列に並んでいるのか。というか生き方そのものが何か間違っているんじゃないか。とうとう限界に達したとき、語り手がとった行動は。




『河川敷のガゼル』
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「きみは行きたいところはないのか?」
 少年は、やっとガゼルに対して言いたいことがまとまったようで、そう口にした。
「おれは北海道に行きたい。学校には行きたくない」
 そうか、と私は思いながら、地面に座り込み、柵にもたれて三時のおやつの菓子パンの袋を開けた。私は特別に北海道に行きたいというわけでもなかったけれども、決して行きたくないということもないので、彼の叫びが自分の叫びであるような気もした。北海道はともかく、とにかく学校には行きたくなかった。私も、学校と北海道なら、圧倒的に北海道に行きたかった。
 少年の声に驚いたのか、不快なものでも感じたのか、ガゼルはすぐに回れ右をして川べりへと向かい、周囲の草を食み始めた。少年はガゼルをじっと見つめていた。そして、ここへ来てくれてありがとう、と大声で言った。ガゼルは彼に一瞥もくれず、より遠い所へと走り去っていった。
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単行本p.149


 住んでいる街の河川敷でガゼルが発見された。どう対処すべきかすぐには決められないので、とりあえず生活域を柵で囲んで一時的に保護する。その柵の周辺を歩哨するというバイトに応募して採用された語り手は、何となくぼんやりとした感じのその仕事が気に入る。もう休学中の大学には戻らず、このままずっとこうしていたい。同じように学校をさぼってガゼルを見に来る少年とのかすかな連帯感。だが、当然ながらガゼルはそんな人間たちの思いなど気にかけない。それぞれが互いに干渉しないままゆるやかにぼおっと共存する時間は、しかし終りが近づいていた。




『隣のビル』
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 それは突発性と継続性の入り交じった感情だった。突発性の背中を継続性が強く押したと言ってもいいような気がする。自分は今いるこの建物の会社の社員である以上に一人の人間だと自認した。
 一人の人間として今までやりたかったことについて考えた。下の階で威張っている常務を殴る。常務のデスクの上の書類をぐちゃぐちゃにしてばらばらに投げつけ、卓上の電話の底の側で頭を殴りつける。受話器で喉元を突く。
 いや、そうじゃない。自分の欲望はそんな、常務に関係するような小さく世俗的なものではない。
 私は再び宝ビルの屋上を見つめた。空は曇っていて雨が降りそうだった。窓からめいっぱい右手を伸ばすと、ビルの屋上の縁には十五センチ定規一本分ぐらいは届かなかったけれども、とにかくそのぐらいは届かないのだという見積もりができたことに私は安堵した。(中略)椅子を窓の下に配置し、私は社内用のサンダルを脱いで通勤用のスニーカーに履き替え、その上にのぼった。下の側の窓枠に足を掛けて再び右手を伸ばすと、真ん中の三本の指の第一関節が金網に引っかかった。届いてしまった、と思うとぞっとした。
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単行本p.202


 パワハラのせいで疲弊している語り手は、職場の隣にある宝ビルという建物を窓から見ることで何とか日々をしのいでいた。だがついに限界がやって来たとき、彼女は窓から、宝ビルの屋上を囲んでいる金網に手を伸ばす。下は四階分の奈落。やるべきじゃない馬鹿げたことだとわかりながら、彼女はビルの窓を乗り越え、宝ビルへの「脱出」を試みる。同じルートを戻ることは物理的に不可能。ささいだが切実な逃避行。彼女が行き着く先は。





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