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『会いに行って――静流藤娘紀行(第四回)』(笙野頼子)(『群像』2019年11月号掲載) [読書(小説・詩)]

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 なぜあの年私は行かなかったんだろう。行けば会えたのに。
 でももし行っていたらきっと師匠は「この人誰」って思っただけかあるいは、「ああ、君か」って。『金毘羅』、「二百回忌」、だいにっほんシリーズ、全て彼の影響をうけているのかもしれないと今思ったりしている。それは神の俗人化、場と時空の変形、私小説的自己の分裂ああ、でもそれならすべて、『田紳有楽』だ。
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『群像』2019年11月号p.372


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第128回。


「この連作において自我について私はずっと書いてきたと思う。しかしそれを今からまた結構書く。」(『群像』2019年11月号p.370)
 群像新人賞に選んでくれた恩人であり、また師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。渾身の師匠説連載、いよいよ『田紳有楽』を取り上げる第四回。




 まずは千葉県における台風15号の大きな被害の話題から。


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 地方とは何だろう、中央とはなんだろう、東京とはなんだろう、天皇とは何だろう、人間(それも身体)とはなんだろうとこの連作を始める時思っていたあたりをまた、さらに一層強く問うしかない事態が目前にあったから。ようするにそれはどのような事態か。
 そもそもここのところの打ち続く災害において、現政権は関西、四国に冷たく九州にも冷たく、しかしそう言えば無論もとより東北北海道にも異様に冷たく、そして今ここに首都圏郊外、千葉にもまた冷たかった、と判明したのである。こうなるとおそらくこの国土全部において連中は米軍基地以外のものに冷たいのではないか、と結論せざるを得ないね?
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『群像』2019年11月号p.364


 笙野頼子さんはご無事とのことで、読者としては一安心。しかし今、再び猛烈な台風19号が首都圏に接近しているわけで、東京二十三区(の一部)と米軍基地を除く各地(そして特に富裕ではない人々)にどんな被害が出ようと、政権はいつもと同じように迷惑顔で事実上無視することは容易に想像できます How dare you !


 これはもちろん前回の話題である天皇制につながっているわけですが、そのまま今回のテーマである自我の問題へと接続されてゆきます。


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 で? 地方とは何か、土着とは何か土俗とは何か、情報もなく、現象だけを目の前にした時、人はどうするのか、共同体にすがり、家族にしがみつく、猫を抱きしめる?
 自我は本当に我であろうか、とはいうものの、人はけして関係性のみを生きるものではない。関係性専一、そんなのは別にマルクス主義者でさえない、ただのドイデ、ドイツイデオロギー連中である。人間が個である事に意味を認めず、自然の脅威さえもかるくみてしまい、朝晩職業を変えるのを「自由」と思っている。それはただの交通専一の輩であり、肉という肉、粒子という粒子、自分という自分を知らないで生きている。
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『群像』2019年11月号p.366


 『ドイツ・イデオロギー』通称ドイデのフォイエルバッハ批判におんたこの原点を見た「だいにっほんシリーズ」を振り返りつつ、自我をどう書いたかという観点から師匠の作品へと進んでゆきます。


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 師匠の自我は生きるために獲得した文学の自我、ならば友達との対等な交遊とは違い、志賀さんとのそれは自分の魂を手に入れようとする空中飛行であった、なので、……私はまた中黒丸の小見出しを付けた。
 つまり志賀さんと師匠の作品を対比してみることでその自我のあり方が見えるのではないか。しかしどさくさにまぎれて拙作もそこに付け加えてしまった。でもこれはこれで仕方ないのではないか。だって私小説と「私小説」について考えている私が幾ら小物だって「私小説」家なのだ。だったらこんな時に使うものといったら自分とか自分の書いたものに決まっている。

 要するに私は本来の師匠の考えに背きながら、つまり師匠が神と仰ぐ志賀さんより実は本当は師匠のほうがはるかに人間の自我を描いて素晴らしいということを、なんとか書こうとしてここまで来たのである。ていうか師匠読者の推定九割九分九厘が必ずそう思っていると信じてきた。
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『群像』2019年11月号p.368


 言及されている「中黒丸の小見出し」はけっこうすごいので、ぜひ『群像』11月号p.362を開いて確認してみて下さい。


 で、ここからいよいよ「自覚的天才の文章アクロバット、海底脱出の大マジック」(『群像』2019年11月号p.374)こと『田紳有楽』を読んでゆきます。まずは二段組三ページにも及ぶ長い内容紹介ばーんと。


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 しかしここまででもう、何が本物やら偽物やら判らぬのだが、はっきり言って読むたびに頭がこんがらがる、ただそれを越えて圧倒される文章の凄さの臨場感と具体感と細部の正確さ(それは後ほど引用しまくり)でなんでもかんでも宇宙からも砂漠さらも遠い時空からも浜松中の眼球を知りきった眼科医のでかい手で、ガッと引っ張ってきて、読むものの目の前に置いてしまうのだ。
 すると読者はそのこんがらがった世界が実は宇宙の本質だと納得してしまい、世界の複雑さの迫力に打たれ、なおかつなんでも醜く書いているかのような化け仏世界のそのかんどころにおいて、見事に浮上して来る正確無比な美や、淡いが故に貴重な悲しみに打たれてしまう。なおかつ、……。
 しかしそこで油断をしていると主人公は痒い金玉を擦っているのでいきなり抒情から放り出されてしまう。要するに、読み手もへらへらの化け茶碗やばけ仏に化した上で、構造を抜け、心を奪われ、彷徨う事の中にひそむ真実の触感、その貴重さの極楽に誘われるのである。
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『群像』2019年11月号p.375


 そして私小説とは何か、を追求してゆくのです。


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 これ普通に私小説と考えられているものと一見すごく違うけど文章それ自体は頂点を極めている鍛えぬいた私小説のもの。つまりその一見違うあり方とは元の本当の私小説におそらくは一番近いものだ。自由であること、正直であってかつ、技術を尽くすこと。
(中略)
 師匠の私小説『田紳有楽』はこのように「でたらめ」と称し、一切のお約束的リアリズムの手足を縛ったまま、真っ暗の崖に飛び下りても、体から文章の翼を生やして空中浮遊した世界文学。その浮遊により背後にあらわれるのは輪郭をなくして初めて判る世界の本質だ。それは曽宮画伯のまっ縦にのびて物質化したあの巨大な虹の飴が、さらに一億本も並んでいて、もう食い切れない極楽、なのに親しみ深くてビールの酔いのように体感出来る世界、ちなみに師匠も青木画伯もこの縦一本の虹を見た事がある。オーバーザレインボー、本物の仏様と会話出来るカフェ。見られる触れる、だらしない仏様達はとっても気さくです。
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『群像』2019年11月号p.377、384


 そしてですね、最後の最後に、予告通り「引用しまくり」極楽が待っているのですよ。


 というわけで、天皇、師匠、自我、私小説について書いてきた、師匠説にして私小説でもある連作は、次回に続きます。



タグ:笙野頼子
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