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『2001:キューブリック、クラーク』(マイケル・ベンソン、中村融・内田昌之・小野田和子:翻訳、添野知生:監修) [読書(SF)]

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 意識的に神話の構造をとり入れ、一人称の実験映画にこだわり、“真の”メッセージに曖昧な部分を内在させたおかげで、観客ひとりひとりが独自の解釈を投影できるようになった。この映画がいつまでも力と今日性を失わない重要な理由がそれだ。
 つまるところ『2001年宇宙の旅』は、みずからの死という運命を意識している生きもの、想像力と知的能力に内在する限界に気づきながらも、さらに高い状態と、さらに高い存在の次元をめざして絶えず奮闘する生きものとしてのわれわれの状況にまつわる物語だ。そして、深遠な共作としての性質がもっともよく顕れているのがそこなのだ。明らかにキューブリックの映画でありながら、クラークの映画でもあり、作家が何十年もとり組んできた数々のテーマが壮大な形で統合されているのである。
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単行本p.41


 「語り草になるような、いいSF映画を作る可能性について話し合いたい」
 キューブリックからクラークへ送られた一通の手紙。そこから始まったのは、混乱と紆余曲折とたび重なる遅延による悪夢だった。あまりにも横暴な監督、現場から逃亡するスタッフ、借金を重ね破産寸前に追い詰められる作家、数限りない諍いと訴訟。だが、映画は突き進んでゆく。奇跡に向かって。

 現代の神話となった映画『2001年宇宙の旅』はどのようにして製作されたのか。徹底した取材をもとに執筆され、公開50周年にあわせて出版された、決定版ともいえるドキュメンタリー。単行本(早川書房)出版は2018年12月、Kindle版配信は2019年1月です。


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 いまにして思えば、こうした当初の敵意と無理解の波は、その映画が技法と構造において根本的に革新をとげていた結果だと理解できる――これもまた『ユリシーズ』との類似点だ。どちらも後にいやいやながらも――すくなくとも、その一部においては――再評価が進み、真に重要な芸術作品が生まれていたのだと理解されるようになった。『2001年宇宙の旅』は、いまや永久に時代を画す希有な作品のひとつだと認められている。平たくいえば、われわれ自身に関する考え方を変えたのだ。この点でも、ジェイムズ・ジョイスの傑作に比肩するといっても過言ではない。
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単行本p.35


 『2001年宇宙の旅』は、その内容とはまた別に、混乱と無理解に潰されそうになりながらも、キューブリックとクラークという二人の天才が共同で生み出した真に革新的なビジョンがついに輝かしい勝利を勝ち取った物語/神話として語られてきました。そのバックステージでは、実際のところ、どんなことが起きていたのでしょうか。関係者への入念な取材と一次資料の徹底的な調査によってそれを明らかにした一冊です。


 現場の状況はまことにひどいもので、今日なら絶対に許されないような人権侵害がまかり通っていた様子、スタンリー・キューブリック監督の横暴ぶり、ひとでなしっぷりには、正直、ひきます。それでも、ひどい扱いを受けた者、仲違いした者、現場放棄して逃亡した者、訴えた者、その全員が畏怖の念をこめて「天才だった」と語るその凄味。あのシーン、このシーン、どのようにして作られたのかを知ると、その意味が分かってきます。


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 彼との経験は活力に満ちていて興味深かった。しかし、キューブリックといっしょに仕事をする者はいない――彼のために仕事をする者がいるだけだ――と学んだ。それはかなりむずかしいことだった。映画製作者として、彼はパラノイア気味で、まちがいなく強迫観念にとり憑かれていた。本当に優秀な人材を集めてから、彼らの才能を浪費しはじめた。しまいにわたしは、才能ある者たちが力を合わせて勤勉に働いているのに、どうやら気まぐれに、矛盾した命令をくだしてばかりいる独裁政治のようなやり方にうんざりした。
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単行本p.194


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 キューブリックは激しい羞恥心に苦しむこともあった。彼が最初からひどくまちがえていたせいで、いったんは大勢の人びととたくさんの金を使ってセットや脚本をあるかたちで用意しておきながら、実際にはまったくちがう方向へ変えなければならない、と思い知らされるからだ。
 それは事実なのか――偉大なるスタンリー・キューブリックはほんとうに数多くの修正や改変を恥ずかしいと感じていたのか――と疑わしそうに質問されて、クリスティアーヌは肯定した。
「彼は恥ずかしいと感じていた?」
「とても」
「しかしスタジオではそれをうまく隠していた」
「そうつとめていたわ」
「彼は成功した。わたしは一度たりとも聞いたことが――」
「隠しているのよ。たしかに、彼は自分を疑うことなんかないように見えたわ。でもほんとうは疑っていた。“ぼくはただのマヌケ野郎だ”と自嘲する瞬間がしょっちゅうあったのよ」
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単行本p.282


 もう一人の主役といってよいアーサー・C・クラークも、映画からの利益をまったく与えられないとか、小説の出版も禁止されるとか、監督から徹底的に踏みつけにされてなお「彼の言うことも理解できる」とか、どんだけお人好しなのかと。


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 1964年を通じてクラークがキューブリックと親密になるにつれ、ある懸念が彼のなかで高まっていった。もしキューブリックが共作者の性的指向に気づいたら、自分が好きになり、敬服するようになったこの男はどう思うだろう? 見当もつかなかったので、彼の懊悩は深まった。とうとう、クラークはその問題に真正面から向き合うことにした。ある打ち合わせの席で、頃合いを見計らって唐突にこういったのだ。「スタン、きみに知ってもらいたいことがある。わたしは精神的にたいへん安定したホモセクシャルだ」
「ああ、知ってたよ」とキューブリックは間髪を容れずに答え、そのままの議論をつづけた。
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単行本p.119


 これで懐柔されてしまうクラーク。監督からも、恋人からも、情け容赦なくむしられるクラーク。同性愛者である自分を受け入れてくれる者には必死で尽くしてしまう気の毒なクラーク。


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「彼の人生においてもっとも重要な人間関係は、彼が同性愛者であることをその基盤としていた」キャラスは1989年にクラークの伝記作家、ニール・マカリアーにそう語っている。「それで彼は何百万ドルも失った……。彼はそれらの人間関係に何百万ドルも注ぎ込んできた」キャラスに言わせれば、クラークは「マイク・ウィルスンの犠牲になったんだ。それも手ひどく」その負担に加えて、クラークは明らかに両性愛者だったウィルスンだけではなく、その家族の暮らしも支えていた。
(中略)
 1966年3月という私生活の面でも仕事の面でもひどく混乱していた時期に、クラークがコロンボから手助けをしてくれたことで、『2001年』の中間部分に見直しがかけられ、今日われわれが目にする映画の骨子がほぼできあがった。それはクラークが製作の段階でも中心的役割を果たしていたことをしめす明らかな証拠だ。
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単行本p.277


 極端な二面性をそれぞれに抱えた主役二人をはじめとして、次から次へと登場する「キャラの立った」傑物たち。驚異と脅威の両方に満ち満ちた撮影プロセス。これはもう無理だろうと思えるトラブルや困難を切り抜けてゆく興奮の展開。600ページ近い大著ですが、それこそ映画を見るような感覚で、最後までどきどきしながら読みました。


[目次]

第1章 プロローグ──オデッセイ
第2章 未来論者(1964年冬~春)
第3章 監督(1964年春)
第4章 プリプロダクション──ニューヨーク(1964年春~1965年夏)
第5章 ボアハムヘッド(1965年夏~冬)
第6章 製作(1965年12月~1966年7月)
第7章 パープルハートと高所のワイヤ(1966年夏~冬)
第8章 人類の夜明け(1966年冬~1967年秋)
第9章 最終段階(1966年秋~1967年~68年冬)
第10章 対称性と抽象性(1967年8月~1968年3月)
第11章 公開(1968年春)
第12章 余波(1968年春~2008年春)


第1章 プロローグ──オデッセイ
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 この場当たり的で、リサーチを基礎とするアプローチは、大予算の映画作りではきわめて異例であり、この規模のプロジェクトでは前代未聞だった。『2001年』には脚本の決定稿がなかった。プロットの節目は、撮影が進んでからも流動的なままだった。重要なシーンは、撮影スケジュールが来た時点で、原型をとどめないほど改変されるか、完全に捨てられるかだった。一流の科学者たちが地球外知性に関して議論するというドキュメンタリー風の序章が撮影されたが、使われなかった。巨大なセットが組まれ、欠陥が見つかり、却下された。二トンもある透明なプレキシグラスのモノリスが、莫大な費用をかけて製作され、しっくりこないという理由でお蔵入りとなった。
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単行本p.32


第2章 未来論者(1964年冬~春)
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 優れたSF映画はまだ作られていないという意見にはかならずしも同意しなかったが、その大半が子供だましであることは百も承知だった。そして語り草になるような映画はまだ作られていないという点は認めるにやぶさかでなかった。それに加えて、長い長いあいだ映画界に食いこむチャンスをうかがっていたのだ。いまでなければいつなのだ――それにキューブリック以上の相手がいるだろうか?
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単行本p.59


第3章 監督(1964年春)
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 作家に仮のものであれ歩合を提示しなかったことだった。純益にしろ総収入にしろ、まったくのゼロであり、したがってちょっとした金も出なかった。メレディスの交渉手腕、いや、それをいうならクラークの黙認傾向に非難の余地があるとしても、これはキューブリックの側の不作為――それどころか倫理の欠如以外のなにものでもない。(中略)キューブリックの見地が理解できるというクラークの能力は、それからの4年にわたり、くり返し発揮されることになる。たとえ限界点までくり返し試されるのだとしても。
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単行本p.98


第4章 プリプロダクション──ニューヨーク(1964年春~1965年夏)
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 7月28日にキューブリックは射抜くような目をクラークに据え、「われわれに必要なのは、神話的な荘厳さにみちたとびきりのテーマだ」(伊藤典夫訳)と宣言した。彼らのプロジェクトが、「クズとみなされない最初のSF映画」から、もっと大胆で、もっと深遠になる可能性を秘めたものへいつしか変貌しているのは、すでに明白だった。
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単行本p.111


 最初の4つの章では、『2001年宇宙の旅』、アーサー・C・クラーク、そしてスタンリー・キューブリック監督をそれぞれ紹介し、二人の出会いから共同作業により映画の基本コンセプトが生み出されてゆく過程を描きます。


第5章 ボアハムヘッド(1965年夏~冬)
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 事態を複雑にしたのは、二転三転をつづけるストーリー・ラインだった。事業のガルガンチュア的性質――巨大で複雑なセット、大型予算、MGMが負っているリスク、何千人もの従業員がいる主要なスタジオ複合施設が、もっぱら彼のヴィジョンの実現に当てられているという事実――にもかかわらず、キューブリックは即興でやっていた。プロジェクトはすべて彼の頭のなかにあった。もちろん、凡人の頭のなかだったら、これは災厄をもたらすだろう。ところが、彼の頭から出てきはじめたのは、じつは精錬された形のものだった。混沌に見えるにもかかわらず、不純物が入念に剥ぎとられ、メッセージは精錬されていたのだ。
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単行本p.172


第6章 製作(1965年12月~1966年7月)
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 キューブリックの人材スカウトには非の打ち所がなかった。彼はたぐいまれなる才能と能力をもつチームを周囲に配置していた。映画会社のボスであるロバート・オブライエンは常に惜しみない支援をしてくれた。撮影監督のジェフリー・アンスワースはその分野ではトップクラスの人材だった。それ以外のスタッフについてもだいたい同じことが言えた。しかも、アーサー・C・クラークというワールドクラスの知的な対話相手が、いつまでも続くストーリーの改善という現実を受け入れてくれていた。ただし、ふたりのせいいっぱいの努力にもかかわらず、それはまったく終わっていなかった。
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単行本p.213


第7章 パープルハートと高所のワイヤ(1966年夏~冬)
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 『2001年』のセットはほとんどがすでに撤去されていたが、この映画の製作における、おそらくはもっとも途方もない光景は、1966年の7、8月から秋に入るまでの特定の日々に、ステージ4の高所で目にすることができた。スタントマンのビル・ウェストンが、そこでEVAすなわち船外活動のワイヤアクションをおこなっていたのだ。
(中略)
 ウェストンの恐れを知らないパフォーマンスは、転落防止ネットなしで実施され、『2001年宇宙の旅』の製作中に撮影された肉体面および技術面でもっとも過酷なシーンの一部となった。
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単行本p.334


第8章 人類の夜明け(1966年冬~1967年秋)
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 フリーボーンがあらゆる予想をくつがえし、それまでの設計すらくつがえして、ヒトザルに歯をむきださせたのを見たとき、キューブリックは自分の歯をむいて笑っただろうか? 実は、彼はそれでも満足しなかった。もっと微妙なニュアンスがほしかった。キューブリックが求めたのは生物のシミュレーションではなく、生物そのものだった。
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単行本p.378


第9章 最終段階(1966年秋~1967年~68年冬)
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 実際には『2001年宇宙の旅』はキューブリックとその辛抱強いスタッフ一同が製作過程でほぼ一から十まで――まったく新しい視覚効果方法論や最新のきわめて重大なプロット要素、等々――発明してきた大規模な研究開発プロジェクトだという事実がどうしてもからんでくる。納入日がどんどん先送りされていくのは当然の話だった。キューブリックの妥協を許さぬ完璧主義がすべての基準となっていたため、けっきょくこの二百の視覚効果シーンの大半が8回から9回、やり直すことになった。トータルすると1万6千になんなんとする回数――これはキューブリック自身が見積もっていた数字そのものだった。
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単行本p.416


 英国ボアハムウッドにある映画スタジオでスタートした映画製作。
 人類の夜明けのシーンはいかにして撮影されたのか。巨大遠心機のなか、モノリス発掘現場、月面基地の会議室、ポッド内での密談、無重力空間でのアクション。非常用エアロックの中に噴出される(実際にはビル三階分の高さから突き落とされる)危険なシーケンス。HALのメモリユニットをひとつひとつ抜いてゆくボーマン。スターゲートの驚異的ビジュアル。その先にある白い部屋。
 セットが完成し、撮影がはじまっているというのに、いまだストーリーは二転三転を続けていた……。中間の5つの章では、撮影のバックステージを描きます。


第10章 対称性と抽象性(1967年8月~1968年3月)
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 ダグ・トランブルは『2001年』の最終段階を、なんとはなしに疲れて士気も下がり苦い思いに満ちた時期として記憶している。それまでは内に秘められていたライバル心や緊張が表面化してきていたという。誰もが疲れ果てているとき、大事なことがもうすぐ終わるというときに起こりがちな現象だ。「沈没船からネズミが逃げだすように、みんな現場から離れていった。誰も彼も疲労困憊、とにかく完全に疲れ切っていて、もうたくさんという気分だし、キャリアも足踏み状態だったからだ」とトランブルは語っている。『2001年』の仕事は予想より遥かに時間がかかっていたため、「ほかの映画の仕事をすることができなかったから、みんなうんざりしていたんだ……みんな、自分がどれほどのことに携わっているのか、気づいていなかったんだよ――ぼくはわかっていたけどね」
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単行本p.519


第11章 公開(1968年春)
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 すでに映画を二回見ていたクラークはインターミッション中に館外に出ると、屈辱と失望のうちにチェルシー・ホテルに引きあげた。のちに彼は、客席に陣取ったMGMの重役たちの一団からこんな言葉が聞こえてきたと回想している――「これでスタンリー・キューブリックもおしまいだな」
 けっきょく、途中で出ていった人数は241名にのぼった。観客総数の6分の1以上だ。
(中略)
 問題山積の打ち上げではあったが、キューブリックとクラークの宇宙叙事詩はただ持ち堪えただけではなかった。『2001年』は成功への道を歩みはじめていた。
 『2001年』は興行面でふるわず、若い観客が馬を駆って助太刀に馳せ参じるまでは打ち切り寸前の窮地にあったという神話とは逆に、興業データは初日からチケットの売れ行きがめざましかったことを示している。
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単行本p.539、548


第12章 余波(1968年春~2008年春)
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 公開から半世紀、そしてタイトルの年からも20年近くがすぎたいまとなっても、『2001年』の影響は過大評価のしようがないほど広く残っている。本作では科学知識に基づく推測やインダストリアルデザイン、テクノフューチャリズム、そして複雑多彩な映画的抽象主義が融合して、それ以前には見られなかったかたちで芸術と科学を一体化させている。『2001年』のいまだ衰えぬ強い影響力は、デザイン面だけを見ても映画製作、広告、そしてテクノロジー全般におよんでいるし、近年ますます今日性を強め、警戒心をこめて語られることもある人工知能にかんする論議においてはHALの名がいたるところで登場する。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」は本作と密接に結びついていて、もはやキューブリックの地球と月の上に太陽が昇る画期的な場面と切り離して考えることができないほどだ。
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単行本p.560


 アニメーション製作、音楽、編集、試写、そして一般公開。最後の3つの章では、ポストプロダクション工程から映画公開後の反響、そして今日における評価までを描きます。



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