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『文系と理系はなぜ分かれたのか』(隠岐さや香) [読書(教養)]

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 もう文系、理系と分けることに意味は無いという主張すら聞こえてきます。
 しかしその一方で、この40年の間には、「科学批判」から「文系不要論」に至るまで、むしろ文系・理系の区分を意識させるような論争がたびたび起こりました。(中略)一方では境界線の消失を訴える声があり、他方にはそれを呼び起こすかのような争いが起きている。この状況はどのように捉えればよいのでしょうか。本章では、研究と教育の世界で起きている事例を中心に、文系と理系の現在を考察し、今日起きている「争い」と「文理融合/連携」の意味を考えてみたいと思います。
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新書版p.196、197


 学問分野を「文系」と「理系」に二分するという慣習は、いつ、どのようにして生じたのか。それは今日でも有意義な枠組みなのか、それとも弊害ばかりが大きい負の遺産なのか。「文系/理系」という対立構造の歴史的起源を探り、さらに経済問題、政治問題、ジェンダー問題など様々な視点から分析してゆく好著。新書版(講談社)出版は2018年8月です。


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 実は、この本を書きはじめたとき、私は楽観していました。文系と理系という「二つの文化」は、だんだん近づいて一つになる、というシナリオを心のどこかで想定していたのです。
 しかし、執筆の過程で見えてきたのは、むしろ、諸学の統一への夢は常にあったのに、それとは違う方向に歴史が進んできたという事実でした。緒学問は、一つになることへの願望と現実における分裂・細分化という、二つの極を揺れ動きながら、実際の所、どんどん多様化し、複雑になっていったのです。
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新書版p.248


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 一般に、異なる視点を持つ者同士で話し合うと、居心地が悪いけれど、均質な人びと同士の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まると言われます。そう考えると、文系・理系のような「二つの文化」があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきなのでしょう。あるいは、論争があったとしても、相手に対する侮蔑や反発の感情が先に立って、カントがその昔目指したような、実のある討論ができなかったことに悲劇があるのではないでしょうか。
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新書版p.250


[目次]

第1章 文系と理系はいつどのように分かれたか? ――欧米諸国の場合
第2章 日本の近代化と文系・理系
第3章 産業界と文系・理系
第4章 ジェンダーと文系・理系
第5章 研究の「学際化」と文系・理系


第1章 文系と理系はいつどのように分かれたか? ――欧米諸国の場合
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 この章ではかなりページを割いて、自然科学と人文社会科学の緒分野が、ぞれぞれ固有の対象を見つけて、宗教や王権から自律していく経緯を描きました。そして、その自律には、主に二つの異なる方向性がみられます。
 一つは「神の似姿である人間を世界の中心とみなす自然観」から距離を取るという方向性です。それは、人間の五感や感情からなるべく距離を置き、器具や数字、万人が共有できる形式的な論理を使うことで可能になりました。
(中略)
 もう一つは、神(と王)を中心とする世界秩序から離れ、人間中心の世界秩序を追い求める方向性です。すなわち、天上の権威に判断の根拠を求めるのではなく、人間の基準でものごとの善し悪しを捉え、人間の力で主体的に状況を変えようとするのです。
(中略)
 前者にとって、「人間」はバイアスの源ですが、後者にとって「人間」は価値の源泉であるわけです。
 断言はできませんが、どちらかといえば、前者は理工系、後者は人文社会系に特徴的な態度といえるでしょう。
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新書版p.73


 学問緒分野はなぜ文系と理系に分かれていったのか。欧米における学術史を掘り下げ、その過程を追ってゆきます。文系理系の区別は単なる便宜上のものとはいえず、かなり本質的な方向性の違いから生じている問題であることを示します。


第2章 日本の近代化と文系・理系
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 研究者育成という視点から見ると、日本が理工系研究者育成偏重の国であることはもっと明白になります。修士(博士前期)以上の人文社会系学生数がOECD諸国と比較して圧倒的に少ないのです。(中略)私が気になるのは、この人員配置が、少なからず日本においては「目先の目標のため批判勢力が封じ込められてきた」歴史とつながっているようにみえることです。「科学」そのものではなく、利便性を追求する「科学技術」に無邪気に信頼を寄せるような人ばかりが求められてきた。そういう側面はなかったでしょうか。
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新書版p.109、110


 日本において文系理系の対立が生じた歴史的経緯を探ります。それが富国強兵や支配構造強化を目指す国家政策によるものだったということを確認します。


第3章 産業界と文系・理系
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 かつて、科学・技術の発展とそれに支えられた産業は、人間社会に豊かさだけではなく環境問題をもたらしました。同じようにして、先端科学・技術の市場化可能な成果への集中的投資が、経済的な不平等という問題を悪化させているのです。
 不平等は、自然環境問題に劣らない危機的な国際問題であるとの認識が今、急速に広まっています。(中略)そのため、自然科学・技術は社会的な課題に取り組まねばならないし、また並行して人文社会科学における研究にも戦略的投資を行わなければならない、という新しい考え方が近年欧州(英国も含む)を中心に出てきました。イノベーション政策3.0とも呼ばれます。
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新書版p.149


 儲かる理系、金にならない文系。そのような産業界の認識がどのような事態を引き起こしているのかを分析し、欧州を中心に広まりつつあるイノベーション政策3.0による産業構造変化が持つ意味を考えます。


第4章 ジェンダーと文系・理系
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 このような現状について、女性がそもそも理工系に行くことを本当に望んでいるのかと取り組み自体を疑問視する声から、中学や高校の段階で女子生徒の理工系への情熱がどのように踏みにじられていくかを切々と訴える声まで、実に様々な意見があります。
 取り組み自体の意義を認める人でも、数値目標だけが前面に出ていることへの違和感はしばしば共有されています。教育現場でのジェンダー差別について社会的な議論が深まる前に、数値目標だけが一人歩きしてしまった側面は否めません。
 この機会に改めて、なぜ現在、科学技術人材育成におけるジェンダー格差を減らすことが国際的なレベルで奨励されているのか改めて整理してみたいと思います。
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新書版p.182


 女性はそもそも理工系に向いていないという認識、あるいは理工系研究職の現場における性差別。それらを減らすための取り組みは、なぜ推進されているのか、どうしてなかなか成果が出ないのか。理工系におけるジェンダー格差の問題を掘り下げます。


第5章 研究の「学際化」と文系・理系
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 以上のことを踏まえるならば、むしろ、「複雑な対象を前にして、価値中立を掲げることが持ちうる政治性」こそが念頭に置かれなければなりません。すなわち、マジョリティの価値観に浸っているために自らの政治性が自覚できていない状態のことを、「中立」という名で呼び変えていないかどうかを、改めて問い直す必要があるでしょう。
(中略)
 同時に言えるのは、「学問は現実の対象に近づくほど不可避の政治性を帯びる」ということを踏まえて、それでも学問的方法論に根ざして言葉を紡ぐことの大切さです。物理学のような法則定立的な方法にしろ、歴史学のような個性記述的な方法にしろ、定量的な社会学のようにその中間的なものにしろ、それは世界を認識する異なったやり方として、数世代にわたり様々なテストを生き残り、受け継がれてきた人類の遺産なのです。
 私たちはバイアスのかかったやり方でしか世の中を見ることはできませんが、緒分野の方法というのは、地域や文化を超えて人々が選び取ってきた、いわば、体系性のあるバイアスです。体系的なやり方で、違う風景を見て、それを継ぎ合わせる。または違う主張を行いながらも、それを多声音楽のように不協和音も込みで重ねあわせていく。そのことにこそ、様々な分野が存在する本当の意義があるのではないでしょうか。
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新書版p.232、233


 今後、文系理系は融合してゆくのだろうか。あるいは統一へと向かうのが望ましいことなのだろうか。学際化、社会生物学論争、カルチュラルスタディーズ、ポストモダニズムなど、学問分野ごとの方法論の相違から起きる政治的論争を振り返り、統一への夢と細分化への動きに揺れ続けてきた学問体系を広い視野を持って見直します。



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