『山よ動け女よ死ぬな千里馬よ走れ』(笙野頼子)(「民主文学」2019年1月号掲載) [読書(随筆)]
――――
あるいは彼らが男尊的に女性を侮辱すれば、野党も保守勢力の票を呼び込めると考えているのか? でもそれで政権をとっても改革を望む女性は、国民は、また捕獲される。何もかもそれでは、元のままではないか? そこを改善すれば、選挙で戦争が止められるかもしれないのに。女性差別やめろ! それで山が動くかもしれないのに。まだ希望はあるのに。
女よ死ぬな! 私はまず、自分が死ななくてよいように文学をやっている。
なので「選挙勝たないと」など平気で言っている(文学の中でさえも)。
しかし森鴎外だって言ったはずだよ? 文学は何をどんなふうに書いてもいいものだと。
だからまたここに、最後に書いておく、能天気な希望? いや、イメージする事で前に進むんだ。
山よ動け、女よ死ぬな、千里馬よ走れ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.120
シリーズ“笙野頼子を読む!”第122回。
文学に何が出来るのか。ひょうすべや猫キッチンを書いた理由。文学の役割。現代の政治状況。これらの話題についてひとつインタビューを……。
民主文学からの依頼に対して、文学で応える作家。含みのある問いに蹴りを入れ、綱ひきちぎり、千里を駆けよ、文学という自由な馬。掲載誌発売は2018年12月です。
「民主文学」2019年1月号に掲載された笙野頼子さんのエッセイ。「文学になにができるのか」という与えられたテーマに対して、最初から全力で撃ち返してゆきます。
――――
マスコミとサブカルと時にアカデミまでが、寄ってたかって、文学の血を吸い、文学に口輪をはめ、文学の偽物を、三猿を前に出しておく、大新聞は東京電力の広告をまた受けてしまっている。やがてその三猿共さえいつかいなくなり、マスコミの人々は最終的には自分達が文学だと言いはじめるだろう。ついに戦争になりそうになる。すると「文学に何が出来るんだ、何も言わない、なぜ言わない」と言ってきやがるだろう。口輪をはめたまま殴ってくるだろう。
――――
「民主文学」2019年1月号p.114
――――
だってこの国、というか権力それ自体は、民主でも純でも、文学を侮辱する事によって回っているからね、侮辱するためにそこに置いておいて、殴る専用で閉じ込めておいて、大マスコミは気に入ったおとなしい文学に仕事を「与えている」つもり? だけど文学は牙のある天馬、腹が減ったり或いは気が向いたりしたら、綱をきって飼い主の喉笛を嚙み千切る。
(中略)
民主文学に出来る事? それならばさくっとクソバイスでもなんでも私でも言えるけどね。例えば幟を肉球新党のような素敵なのにしたら? とか。
――――
「民主文学」2019年1月号p.111、112
――――
そもそも文学に出来ないことなんてあるんですかね? だってすごいですよ、この文学という馬は、いわば、千里の馬。
どんなに時代が激変しようがしまいが要するに文学は万能、死なない馬。言葉がある限り始まりがある限り疑問とともにやって来て、育ってしまう馬。それはしかも一日千石の食物を与えれば千里を走る馬だ。でもあげなければ普通の馬にもおとるとどこかに書いてあったよ。
(中略)
さあ、これが一日に千石の穀物を喰いつくして千里走るという、文学の馬だ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.112、113
近作について。特に、読みにくい、伝わらない、これまでの作品を踏まえないと読めない、といったご批判に対して。
――――
話題になる事で反戦になるだろう。水道法改悪と戦っている、浜松の女性からも手紙がきた。笙野初読みでも一気ということだ。つまり読んで判らないのは難解なのではない、自分の背後にあるコードに気付いていないからだ。ていうか、文学は取り敢えずぐだぐだに見せかけつつ、今のままでは見えないものを引っかけて来ているよ。今はそれに手紙だけじゃなくパソコンがあるだろう。昔?
ネットがなかった頃、文学叩きはこう言ったものだ、あんなものは誰ひとりも読まないのだと。しかしネットを開けたら、そこに読者はいた。
――――
「民主文学」2019年1月号p.116
――――
まあその他にもまだまだ、何か言われるわけだけどね。しかもこれは「運動側」からのご意見になりがち、要するに私の文章の癖をなくせって、それで運動のよりよい道具(違うよ! 文学だよ!)になるってのか?
けーっ! 私にはこの癖のあるぐだぐだ文章しか武器がないのにねえ。本が出版されているのはこの癖故なんだがねえ。つまりまさにこれを愛好する、タフで高度で何も恐れぬほんの小数の人々がいて、定価新品で買ってくれて、それで私はローンや猫の医者代を払う事ができるから生きているのだよ。少額カンパさえも可能になるのだよ。
それを分かり安くするために書き直せ、思想のためお国のために、とか言うやつがいるなら、そいつはただ私を飢えさせ、路頭に迷わせる事を何とも思っていない。作家を奴隷かなんかだと思っているアホー、アホー、アホー、である。
――――
「民主文学」2019年1月号p.117
でもって、文学の役割とは何か、という質問に対して。
――――
本当の文学は「小さい」けど捕獲されにくい。文壇の端っことか時にその外にまででてしまって、捕獲の編み目から逃れ、「取り残されている」。そしてジャーナリズムがもうぴったり蓋をされている時代でも、統計の数字だけではとても感じられないような生々しい「嘘」を「適当」に書く事が出来る。見てきたような面で、「大嘘」をかますから。でも。
これだと、「役割のない、その全体で存在する事が役割だよ」とでも言っておいた方が適切かもしれない。
その上でただ、したい事をするんだな。そもそも自称フォイエルバッハ主義者のこの私が、あなたたち(今もマルクス主義者なの? ここ二十年批判してきたですけど)とついに、共闘しているよ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.118
先に引用した肉球新党のくだりもそうでしたが、「民主文学」に対する痛烈なイヤミを振り混ぜつつ、最後は性差別と政権という話題へなだれ込んでゆきます。暴れ馬のように。でもまっすぐに。
――――
女と文学と政権は関係あるんだよ。だってなんかもうこの女差別戦前並だろうが。そしてこれがこの国の問題の歴史的中心だよ。必ず「贅沢だ」、「言い過ぎだ」、「もっと他の運動をやれ」とか言われたままで軽く見られ、後回しにされ、苦しんできた、ウーマンリブの問題、文学の問題。これでは女も選挙も文学も民主主義も絶望だろう。
なんとかしないと駄目だ。そもそも現代への批評っても日本の女性に現代があったのか、近代さえあったのか。
女への侮辱と文学への侮辱それはこの国においてあまりにも似ている。
そして例えば、原発は「男」だよ、文学は「女だ」よ、今のところはね。
男尊、それは原発そのものだ。彼らは従わず染まっていない女を許さない。侮辱して使い、汚し、歴史も来歴も内面も潰す、正しいふりをして一律にと言いながら女だけを潰して行く。その上で自分達は被害者面をするのだ。どんな反権力をしてもどんな反差別をしてもどんな立派な業績があっても、女と文学を叩くものは国を滅ぼす。
そう、そもそも、女性差別をすれば選挙で「負ける」のだ。つまりは勝っても結果的に与党補完勢力にすぎぬものになるからだ。結局女性は絶望してしまう。右にも左にも、どちらにも勝たせても奴隷のままならば。本来の選挙権を持っていないのだと閉塞してしまう。次からは投票に行かない。そこに救いはない。
――――
「民主文学」2019年1月号p.119
反権力、反差別を掲げて戦っている「左翼」の皆様が、男女問わず、女叩き、フェミ叩き、分断、マウンティング、被害者面、そればっかり頑張っている風景を見ていると、あっさり絶望に陥ってしまいそうになります。でも、文学はある。捕獲されることなく、疾走してる。そこに希望がある。いやまじで。
あるいは彼らが男尊的に女性を侮辱すれば、野党も保守勢力の票を呼び込めると考えているのか? でもそれで政権をとっても改革を望む女性は、国民は、また捕獲される。何もかもそれでは、元のままではないか? そこを改善すれば、選挙で戦争が止められるかもしれないのに。女性差別やめろ! それで山が動くかもしれないのに。まだ希望はあるのに。
女よ死ぬな! 私はまず、自分が死ななくてよいように文学をやっている。
なので「選挙勝たないと」など平気で言っている(文学の中でさえも)。
しかし森鴎外だって言ったはずだよ? 文学は何をどんなふうに書いてもいいものだと。
だからまたここに、最後に書いておく、能天気な希望? いや、イメージする事で前に進むんだ。
山よ動け、女よ死ぬな、千里馬よ走れ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.120
シリーズ“笙野頼子を読む!”第122回。
文学に何が出来るのか。ひょうすべや猫キッチンを書いた理由。文学の役割。現代の政治状況。これらの話題についてひとつインタビューを……。
民主文学からの依頼に対して、文学で応える作家。含みのある問いに蹴りを入れ、綱ひきちぎり、千里を駆けよ、文学という自由な馬。掲載誌発売は2018年12月です。
「民主文学」2019年1月号に掲載された笙野頼子さんのエッセイ。「文学になにができるのか」という与えられたテーマに対して、最初から全力で撃ち返してゆきます。
――――
マスコミとサブカルと時にアカデミまでが、寄ってたかって、文学の血を吸い、文学に口輪をはめ、文学の偽物を、三猿を前に出しておく、大新聞は東京電力の広告をまた受けてしまっている。やがてその三猿共さえいつかいなくなり、マスコミの人々は最終的には自分達が文学だと言いはじめるだろう。ついに戦争になりそうになる。すると「文学に何が出来るんだ、何も言わない、なぜ言わない」と言ってきやがるだろう。口輪をはめたまま殴ってくるだろう。
――――
「民主文学」2019年1月号p.114
――――
だってこの国、というか権力それ自体は、民主でも純でも、文学を侮辱する事によって回っているからね、侮辱するためにそこに置いておいて、殴る専用で閉じ込めておいて、大マスコミは気に入ったおとなしい文学に仕事を「与えている」つもり? だけど文学は牙のある天馬、腹が減ったり或いは気が向いたりしたら、綱をきって飼い主の喉笛を嚙み千切る。
(中略)
民主文学に出来る事? それならばさくっとクソバイスでもなんでも私でも言えるけどね。例えば幟を肉球新党のような素敵なのにしたら? とか。
――――
「民主文学」2019年1月号p.111、112
――――
そもそも文学に出来ないことなんてあるんですかね? だってすごいですよ、この文学という馬は、いわば、千里の馬。
どんなに時代が激変しようがしまいが要するに文学は万能、死なない馬。言葉がある限り始まりがある限り疑問とともにやって来て、育ってしまう馬。それはしかも一日千石の食物を与えれば千里を走る馬だ。でもあげなければ普通の馬にもおとるとどこかに書いてあったよ。
(中略)
さあ、これが一日に千石の穀物を喰いつくして千里走るという、文学の馬だ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.112、113
近作について。特に、読みにくい、伝わらない、これまでの作品を踏まえないと読めない、といったご批判に対して。
――――
話題になる事で反戦になるだろう。水道法改悪と戦っている、浜松の女性からも手紙がきた。笙野初読みでも一気ということだ。つまり読んで判らないのは難解なのではない、自分の背後にあるコードに気付いていないからだ。ていうか、文学は取り敢えずぐだぐだに見せかけつつ、今のままでは見えないものを引っかけて来ているよ。今はそれに手紙だけじゃなくパソコンがあるだろう。昔?
ネットがなかった頃、文学叩きはこう言ったものだ、あんなものは誰ひとりも読まないのだと。しかしネットを開けたら、そこに読者はいた。
――――
「民主文学」2019年1月号p.116
――――
まあその他にもまだまだ、何か言われるわけだけどね。しかもこれは「運動側」からのご意見になりがち、要するに私の文章の癖をなくせって、それで運動のよりよい道具(違うよ! 文学だよ!)になるってのか?
けーっ! 私にはこの癖のあるぐだぐだ文章しか武器がないのにねえ。本が出版されているのはこの癖故なんだがねえ。つまりまさにこれを愛好する、タフで高度で何も恐れぬほんの小数の人々がいて、定価新品で買ってくれて、それで私はローンや猫の医者代を払う事ができるから生きているのだよ。少額カンパさえも可能になるのだよ。
それを分かり安くするために書き直せ、思想のためお国のために、とか言うやつがいるなら、そいつはただ私を飢えさせ、路頭に迷わせる事を何とも思っていない。作家を奴隷かなんかだと思っているアホー、アホー、アホー、である。
――――
「民主文学」2019年1月号p.117
でもって、文学の役割とは何か、という質問に対して。
――――
本当の文学は「小さい」けど捕獲されにくい。文壇の端っことか時にその外にまででてしまって、捕獲の編み目から逃れ、「取り残されている」。そしてジャーナリズムがもうぴったり蓋をされている時代でも、統計の数字だけではとても感じられないような生々しい「嘘」を「適当」に書く事が出来る。見てきたような面で、「大嘘」をかますから。でも。
これだと、「役割のない、その全体で存在する事が役割だよ」とでも言っておいた方が適切かもしれない。
その上でただ、したい事をするんだな。そもそも自称フォイエルバッハ主義者のこの私が、あなたたち(今もマルクス主義者なの? ここ二十年批判してきたですけど)とついに、共闘しているよ。
――――
「民主文学」2019年1月号p.118
先に引用した肉球新党のくだりもそうでしたが、「民主文学」に対する痛烈なイヤミを振り混ぜつつ、最後は性差別と政権という話題へなだれ込んでゆきます。暴れ馬のように。でもまっすぐに。
――――
女と文学と政権は関係あるんだよ。だってなんかもうこの女差別戦前並だろうが。そしてこれがこの国の問題の歴史的中心だよ。必ず「贅沢だ」、「言い過ぎだ」、「もっと他の運動をやれ」とか言われたままで軽く見られ、後回しにされ、苦しんできた、ウーマンリブの問題、文学の問題。これでは女も選挙も文学も民主主義も絶望だろう。
なんとかしないと駄目だ。そもそも現代への批評っても日本の女性に現代があったのか、近代さえあったのか。
女への侮辱と文学への侮辱それはこの国においてあまりにも似ている。
そして例えば、原発は「男」だよ、文学は「女だ」よ、今のところはね。
男尊、それは原発そのものだ。彼らは従わず染まっていない女を許さない。侮辱して使い、汚し、歴史も来歴も内面も潰す、正しいふりをして一律にと言いながら女だけを潰して行く。その上で自分達は被害者面をするのだ。どんな反権力をしてもどんな反差別をしてもどんな立派な業績があっても、女と文学を叩くものは国を滅ぼす。
そう、そもそも、女性差別をすれば選挙で「負ける」のだ。つまりは勝っても結果的に与党補完勢力にすぎぬものになるからだ。結局女性は絶望してしまう。右にも左にも、どちらにも勝たせても奴隷のままならば。本来の選挙権を持っていないのだと閉塞してしまう。次からは投票に行かない。そこに救いはない。
――――
「民主文学」2019年1月号p.119
反権力、反差別を掲げて戦っている「左翼」の皆様が、男女問わず、女叩き、フェミ叩き、分断、マウンティング、被害者面、そればっかり頑張っている風景を見ていると、あっさり絶望に陥ってしまいそうになります。でも、文学はある。捕獲されることなく、疾走してる。そこに希望がある。いやまじで。
タグ:笙野頼子
コメント 0