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『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

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 自分がただフィールドを眺めながら人々の声と熱を受信する装置になったような気がした。そして瞬間の価値を、本当の意味で知覚しているような思いもした。人々はそれぞれに、自分の生活の喜びも不安も頭の中には置きながら、それでも心を投げ出して他人の勝負の一瞬を自分の中に通す。それはかけがえのない時間だった。
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単行本p.345


 サーカー2部リーグ、22のチームが今年最後の試合に挑む、その日。見守るサポーターたちには、それぞれに理由があり、事情があり、人生がある。様々な人々がサッカースタジアムで交差する瞬間をドラマチックに描いた連作短篇集。単行本(朝日新聞出版)出版は2018年6月です。


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 自分はこのチームに勝って欲しかったのだ、と思った。どれだけしょうもない試合をしても、でも最終的に勝つところをどうしても見たいと自分は思っていたのだ、とヨシミは気が付いた。両目が痛くなった。涙が出そうだったが泣かなかった。
 改めて、わけのわからない気持ちだと思った。なぜ縁もゆかりもない、勝ったからといって自分に何の利得もないこのチームに、どうしても勝って欲しいと思うのか。それはおそらく、ヨシミがこのチームを好きだからなのだけれども、そもそもどうして人間は、サッカーチームなんてものを好きになるのか。
 わからない、と思いながら、ヨシミはピッチを見つめていた。
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単行本p.93


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 初めて行くゴール裏の自由席で、男も女も叫んで歌う阿鼻叫喚の只中で、息をすることもままならない状態で試合を観た。真冬で、雨が降りしきっていた。結果はどうあれ解散は決定しているのに、ヴィオラ西部東京のサポーターたちは必死だった。寒さと雨の中で、ほとんど苦しみたがっているとすら言えるような様子で。
(中略)
 その試合終了時の様子を、誠一はもうずっと忘れることができないでいる。ヴィオラの選手たちは、濡れた芝生に両手と両膝を突いていた。雨に打たれて這いつくばっていた。誠一はそれから、幾度となくそういう場面を見たし、実はよくあるものであることを今は知っている。しかし、すべてに違う当事者と理由が存在することも知っている。あのヴィオラの終わりは、誠一には永遠だった。かけがえのない、誠一のチームの終わりだった。
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単行本p.114


 人はなぜサッカーに惹かれ、特定チームを熱心に応援するようになるのか。観戦する喜び、応援する高揚、スタジアムで食べるくいもんの美味さ、グッズ入手の楽しみなど、サッカー選手ではなくサポーターたちに焦点を当てた物語が語られてゆきます。サッカーに関する知識は特に必要ない、というよりむしろサッカーに興味のない読者に魅力を伝えてくれる、サッカー観戦入門書としても有効な連作短篇集です。


[目次]

第1話 三鷹を取り戻す
第2話 若松家ダービー
第3話 えりちゃんの復活
第4話 眼鏡の町の漂着
第5話 篠村兄弟の恩寵
第6話 龍宮の友達
第7話 権現様の弟、旅に出る
第8話 また夜が明けるまで
第9話 おばあちゃんの好きな選手
第10話 唱和する芝生
第11話 海が輝いている
エピローグ 昇格プレーオフ


『第2話 若松家ダービー』
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「琵琶湖いいチーム」
「うん。いいチーム」
 仁志の言葉に、供子は同意する。圭太がひきつけられたのも無理はないだろう。だからといってじゃあ自分はどうか、琵琶湖を応援できそうか、というと、それはまったく違う話だというのも、供子にはわかった。妙なたとえだけれども、自分たちが犬だとしたら、クラブは飼い主のようなものなのかもしれない、と供子は思った。犬は飼い主を選べない。圭太は真の泉大津のサポーターではなかったということだろう。そしてこれからは、琵琶湖と苦楽を共にしていくのだろう。
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単行本p.64


 息子が隠し事をしている……。
 自分の息子が琵琶湖トルメンタスを応援するために滋賀のスタジアムに通っていることに気づいた両親。うちは家族でずっと泉大津ディアブロを応援してきたのに、いったいなぜ……。でも本人が決めたのなら、母親に何が出来るだろう。せめて息子を安心して託せるチームかどうか家族で確認に行こう。でも妹は言うのだった。サッカーもういい、わたし女子バスケの試合を見に行くから……。当人たちにとっては深刻だが、どこかおいおいと突っ込みたくなる「家族崩壊の危機」を大真面目に描いた作品。


『第3話 えりちゃんの復活』
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 ヨシミが新しい技術に手を染め、髪を切り、色を変え、自転車通勤が板に付いてくることは、鶚が負けていることの証明でもあった。ヨシミは、できれば何も変わりたくなかったのだが、鶚が思ったよりだめなので、遠いところまで来てしまった。本当はこれ以上何かを始めたくないのだ。ヨシミはただ、鶚の試合を観ることが自分にとって気晴らしだった頃に戻りたいとずっと思っている。今は、気晴らしが気晴らしでなくなり、さらにそれのための気晴らしを求めてさまよい歩いているような状態だった。
 えりちゃんは、そんなことは露知らず、ラリエットを首に巻いてブローチをジャケットに付け、もうすぐ着くよ、などとうれしそうに言う。とてもいい子だと思う。どうしてこんな子がひきこもり状態になっていたのか、ヨシミは改めて不思議に思った。
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単行本p.79


 ひきこもりになってしまった知り合いのえりちゃんと一緒に、サッカー観戦に行くヨシミ。試合はしょぼいし、天気は最悪。でも、ひいきのチームを応援することで立ち直ってゆくえりちゃん。一方、ヨシミは自分が応援している鶚ことオスプレイ嵐山の低迷により、色々と人生が迷走気味。もう鶚はあかん、負けてもいい、どうでもいい、と思っていたヨシミだが、ついに鶚にチャンスがやってきたとき……。サッカーチームや選手を応援することで与えられる力を感動的に描いた作品。


『第4話 眼鏡の町の漂着』
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 誠一は、一時的に人のいなくなった芝生を眺めながら、ヴィオラ西部東京の最後の試合のことを思い出していた。雨の中の選手たちのことを、泣いていた、あるいは、呆然と立ち尽くしていた、あるいは、両手で顔を覆ってうつむいていた周囲の人々のことを考えていた。大人も、老人も、子供も、女も、男もいた。自分もその一人だった。
 自分はずっとそこにいるのだ、と誠一は思った。(中略)さまざまな喜びやつらいことやどちらでもないことの中を通ってきながら、誠一の半分はずっとそこにいるのだ。
 その十七歳の誠一がずっと見つめている残像の最後の一片が、今日でなくなってしまうのかもしれなかった。
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単行本p.121、122


 手ひどい失恋をして、思い出のスタジアムに通う香里。解散したチームの最後の選手を追いかけている誠一。それぞれに引きずっているものを抱えた男女の、スタジアムでの出会いを描いた作品。


『第7話 権現様の弟、旅に出る』
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 壮介は大きくうなずいて、権現様の弟のかしらがしまわれた箱を両手に抱えながら、スタジアムを後にした。
 自分が頭を嚙んだところで、柳本さんの怪我が早く治るわけではないかもしれないのはわかっていた。それでも、自分はそのことを願っているんだということが柳本さんに伝わればいいと思った。伝わっても伝わらなくても柳本さんの回復とは厳然と関係はないのだけど、あらゆる僥倖の下には、誰かの見えない願いが降り積もって支えになっているのではないかと、壮介はこの九か月を過ごして考えるようになっていた。
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単行本p.226


 あちこちのスタジアムを回っては権現舞を披露する若者が、様々な出会いを通して敬虔さを学んでゆく。職場の陰湿なモラハラ、他者へのささやかな祈りの大切さなど、過去の作品を連想させるモチーフが印象的ないかにも著者らしい作品。


『第8話 また夜が明けるまで』
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 文子は、自分が泣いていることに気が付いた。洟をすすって手のひらで涙を拭いながら、タオマフを持ってきたけど出すの忘れてた、と思い出した。
 隣にいる人の手が、おずおずと文子の肩をつかんで、じょじょに力がこもってゆくのがわかった。
「また一緒にサッカーを観ましょうよ」
 遠藤さんは言った。私も東京の近くで土佐の試合があったら観に行くことにします、と遠藤さんは続けた。文子はうなずいた。
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単行本p.264


 それぞれに昇格と降格がかかったどちらにとっても負けられない一戦。「自分が観戦したらチームが負けてしまう、というか耐えられない」ということで絶対に観戦しないと決意していた二人が、謎の出会いをへて、一緒にスタジアムへ。たかがサッカーの試合、それなのに奇跡が生まれ、友情が生まれ、人が救われる。人の思いの強さをユーモアも込めて力強く描いた、個人的に本書で最も気に入った作品。


『第10話 唱和する芝生』
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 いろんな人がいる文化祭みたいだなあ、富生は思いながら立ち上がり、座り込んで横断幕に色を塗っている人たちの頭をぐるりと見回す。これが一銭になるわけでもなく、むしろお金を出し合ってこの部屋を借りて道具も用意して、いい大人が手作りで、歌を作ったり太鼓を叩いたりしながら、サッカーチームの応援をしている。
 富生は唐突に、特に前後の文脈はなく、いいんじゃないか、と思った。
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単行本p.317


 吹奏楽部に所属している少年が、憧れの先輩を追ってサッカースタジアムへ。まるで目茶苦茶なライブのようなパワフルな演奏とチャントにやられ、いつしかサポーターグループの音楽担当に。音楽という方向からサッカー応援の魅力に迫る作品。



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