『カブールの園』(宮内悠介) [読書(小説・詩)]
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けれど二十一世紀のいま、もはやその者たちに最良の精神は宿らないと感じもしてしまう。インフラが発達し、有象無象の神秘が解かれ、言葉ばかりが溢れかえった、いまはもう。(中略)弱者のあふれたこの街で、しかしもうブルースは聞こえてこない。
わたしたちの世代の最良の精神は、いったい、いかなる生にこそ宿るのだろう?
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単行本p.30
きらびやかなプレゼンテーション、華々しいプロレスショー、そして仮想現実。虚構に飲み込まれ空虚な言葉だけがあふれるこの場所で、人種的マイノリティとして生きるということは何を意味するのだろうか。現代アメリカを生きる日系人の若者たちの姿を通じて現代の祈りを追い求める中篇二篇を収録。大きな飛躍を感じさせる作品集。単行本(文藝春秋)出版は2017年1月、Kindle版配信は2017年1月です。
『カブールの園』
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誇りや文化や伝統を、クオーターに換えてしまっていいのか。外部から、とやかくいうことは簡単だ。でも、一つ確実にいえることがある。マイノリティがどう生きるかは、当の本人がきめるということだ。(中略)諦念を受け止め、ありうべき世代の最良の精神を守り通すこと。そのためにこそ、このカブールの園で笑みを絶やさないこと。クオーターを投げてもらってかまわない。わたしは踊る。
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単行本p.84、89
母親との確執、子供時代に受けた苛めのトラウマ、人種差別。様々な葛藤を抱えながらアメリカの今を生きる日系三世の語り手。プログラマとして勤務しているスタートアップ企業の上司から休暇を命じられ、大戦中の日系人強制収容所跡を訪れた彼女は、そこで自分の過去との思いがけないつながりを見つけて衝撃を受ける。
表題は、語り手が受けているセラピーで使われる仮想現実のあだ名なのですが、虚構や虚言に覆い尽くされてしまった世界の象徴とも感じられます。人種的マイノリティとして生きること。支持するふりをしながら定型に押し込め不可視化しようとしてくる社会。それに抗うか、それともしたたかに乗りこなすか。真実なき現代を生きることへの覚悟を問う中篇。
『半地下』
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あるいは、単なる脚本の誤植だったのかもしれない。そんなふうに思うこともある。
しかし、エディの言葉は深く僕に届いていた。そしてショーはつづく。リングに上がろうが上がるまいが、読みあげなければならない諸々のろくでもない脚本は、いくらでもある。それらを前に、僕はこの誤植を手垢がつくまで読み返し、くりかえし咀嚼するのだ。
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単行本p.128
父親の失踪により米国に取り残された幼い姉弟。英語と日本語という異なる言語と思考形式にアイデンティティを揺さぶられながら成長してゆく語り手。プロレスという虚構そのもののショービジネス界に引き取られ、リングの上で痛めつけられ続ける姉。「この国は偽善にまみれているけれど、子供だけは絶対に受け入れる」(単行本p.97)という言葉はどのレベルまで本当なのだろうか。
偽善と建前と物語だけで支えられているこの世に、真実がないのであれば、せめてそれに代わるような何か確かなものがあってほしい、だが、はたしてあるだろうか。祈るような切実な問いかけが心をうつ力強い中篇。
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