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『〆切本』 [読書(随筆)]

『手紙 昭和二十六年』(吉川英治)より
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 小説
 どうしても書けない 君の多年に亙る誠意と 個人的なぼくへのべんたつやら 何やら あらゆる好意に対しては おわびすべき辞がないけれど かんにんしてくれ給え どうしても書けないんだ
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単行本p.44


 書けぬ、どうしても書けぬ。〆切を前にして、というか後にして、七転八倒悶絶自傷に走る者、他人のせいにする者、逃亡する者、話をすり替えて正当化する者……。明治の文豪から現代の人気作家まで、〆切に苦悩し狂乱する文士たちが言い訳と現実逃避のために書きつけた、血を吐く文章94篇を集めた〆切アンソロジー。単行本(左右社)出版は2016年8月です。


『はじめに』より
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 本書は明治から現在にいたる書き手たちの〆切にまつわるエッセイ・手紙・日記・対談などをよりぬき集めた“しめきり症例集”とでも呼べる本です。
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単行本p.10


 とにかくどのページからも「書けない、書けない」という叫びがあふれてくる一冊。そういうとき、人はどのような言葉を吐き出すのか。

 まずは素直に謝るパターン。シャレにならない事態であっても、とにかく謝り倒す。少しだけ勝手な言い訳を混入させることで、でもぼくそんなに悪くないもん、という甘え心を見せるのもテクニック。


『はがき 大正六年』(島崎藤村)より
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一月もかかって、漸く三十三枚しか書けませんでした。小生の身体の具合は、これでもって大凡想像がつかうと思ひます。右にも関わらず、小生は力めて健康の回復を計って居ます。
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単行本p.23


『手紙 明治三十八年』(高浜虚子)より
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さう急いでも詩の神が承知しませんからね。(此一句詩人調)とにかく出来ないですよ。今日から帝文をかきかけたが詩神処ではない天神様も見放したと見えて少しもかけない。いやになった。是を此週中にどうあってもかたづける。夫からあとの一週間で猫をかたづけるんです。
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単行本p.19


『はがき 昭和六年』(寺田寅彦)より
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どうかもう少し御延期を願度と存じます。日支事件で新聞は満腹でしやうから、閑文字は当分御不用ではないかとも想像致しますが如何でしやう。
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単行本p.26


 続いて、書けないものは書けないと開き直るパターン。


『机』(田山花袋)より
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どうも気に入らない。題材も面白くなければ、気乗りもしない。とても会心の作が出来そうに思われない。もう日限は迫って来ているのだが、「構うことはない、もう一日考えてやれ。」と思って、折角書く支度をした机の傍を離れて、茶の間の方へと立って来た。
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単行本p.12


『無恒債者無恒心』(内田百聞)より
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 帰り途に、落ちついて考えて見たら、二十八日までという期日は、小生がお金がほしくてきめて貰った日限であって、雑誌の編集の都合からいえば、何も二十八日に原稿を受取らなくてもよかったのである。小生は自分の困惑について、他人におわびしに来たようなものである。(中略)これから二三日の間の借金活動に要する運動資金を調達するため、細君に、彼女の一枚しかないコートを持って、質屋に行くことを命じておいた。そうして熟睡した。
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単行本p.41


 何とか責任を逃れようと被害者ぶってみせる、あるいはいきなり「そもそも〆切をなぜ守らなければならないのか」とか言い出すパターン。


『私の貧乏物語』(谷崎潤一郎)より
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私が貧乏してゐる重大な原因は、遅筆と云ふことに存するのである。これは原稿の催促に来る記者諸君にはいつも訴へてゐるのだけれども、その程度が如何に甚しいかと云ふことを本当に諒解してくれてゐるのは、私と起居を共にする家族の人達だけであつて、記者諸君などは好い加減に聞いてゐるらしいのが残念でならない。
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単行本p.28


『遊べ遊べ』(獅子文六)より
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 日本の文士がこんなに忙がしくなったのは、有史以来である。結構なことだが、文士が働きアリのように、まっ黒になって、朝から晩まで仕事をするというのは、少し変態ではないか。
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単行本p.47


『書けない原稿』(横光利一)より
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引き受けた原稿は引き受けたが故に、必ず書くべきものだとは思つてゐない。何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ。執筆者を殺してまでも原稿をとると云ふことは、最早やその人の最初の親切さを利慾に変化させて了ってゐる。
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単行本p.52


 あつかましい言い訳と正当化がずらずら並ぶなかで、追い詰められてちょっと壊れちゃったかなーという感じのパターンも。


『日記 昭和三十五年』(高見順)より
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 私みたいに遅筆の人間は、ほんとに困る。
 遅筆の人間が、時間潰しのこんな日記書いている。
 時間が潰れると思って、今まで書かなかった。
 今、これは、仕事にかかる前に書いている。
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単行本p.73


『作家が見る夢』(筒井康隆)より
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締切に追われているときの、原稿を書いている夢。原稿用紙のマス目の数が明らかに違うわけですよ。縦二十字以上、横を見たらワアッと何十行もある(笑)。それをあしたまでに二十枚、というのはこわいです。
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単行本p.101


『吉凶歌占い』(野坂昭如)より
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 明け暮れ針のむしろに在る如く、もとより編集長以下必死の形相裂帛の気合で催促なさり、するとぼくは、事故で右手の小指を折ってしまった(中略)しかし、締切は一週間延びただけで、前後の事情いっさいかわらず、骨折後二日目に、シーネをはずし、とにかく字を書きはじめた、自己流に、割箸折って小指にあて、ゴムバンドでとめて。
 半分ほどすすんだら、そしてそれまで不精きめこみ、のび放題の鬚をそろうと、カミソリの刃をとりかえ、あやまってまったく骨折と同じ箇所を、骨のみえるほど、切ってしまったのだ(中略)
われながら認めにくいけれど、どうも、締切と怪我の間になにかつながりあるように思えるのだ。
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単行本p.104、107


 原稿執筆を「編集者との心理戦」と見なして皮肉を言いまくるパターン。


『肉眼ではね』(西加奈子)より
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「西さん、先週締切の原稿ですが、まだ送っていただけないのでしょうか」「肉眼ではね」
 どうだろう。「自分は己の目で見えるものしか信じない、物事の背景にある様々なものに心の目を凝らすことが出来ない俗物」と、編集者に思わせることは出来ないだろうか。
(中略)
 とうとう想像だけでは飽き足らなくなり、実際に声を出すことまでする。
「肉眼ではね!」
 寝ていた猫が、ビクッとなるほどの大声だ。
 もはや、「肉眼ではね」を言いたくてたまらないだけになっている。脳からおかしな物質が出てくる。
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単行本p.179


『植字工悲話』(村上春樹)より
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僕なんかが聞いていると編集者の方もけっこうそういうデッドライン・ゲームを楽しんでいるのではあるまいかという気がしなくもない。これでもし世間の作家がみんなピタッと締め切りの三日前に原稿をあげてしまうようになったら――そんなことは惑星直列とハレー彗星がかさなるほどの確率でしか起こり得ないわけだが――編集者の方々はおそらくどこかのバーに集まって「最近の作家は気骨がない。昔は良かった」なんて愚痴を言っているはずである。これはもう首をかけてもいいくらいはっきりしている。
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単行本p.242


 そして、最後は書き逃げパターン。


『作者おことわり』(柴田錬三郎)より
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「プレイボーイ」誌の編集者が、あと一時間もすれば、このホテルの私の部屋に入って来ます。
 締切ギリギリ、というよりも、締切が一日のびてしまって、私は、断崖のふちに立たされているあんばいなのです。
 どうしても、あと一時間で、脱稿して、渡さなければならない。そうしないと、雑誌が出ない。
(中略)
 困った!
 かんべんしてくれ!
 たすけてくれ!
 どう絶叫して救いを乞おうと、週刊誌は、待ってはくれぬ。
 そこで、やむを得ず、こんなみじめな弁解を書いているのです。
(中略)
 あと一時間で、「プレイボーイ」誌の編集者が、原稿を受けとりにやって来るが、私は、白紙を渡すわけには、いかない。
 黙って、悠々として、さらさらと書きあげたふりをして、部屋へ置きのこしておいて、私は、ロビイへ降り、ティ・ルームで、ブルーマウンテンでも飲むことにする。
 編集者は、急ぎの原稿を受けとると、その場で、読まずに、一目散に、印刷所へ駆けつけて行く習慣があることを、私は知っているからです。
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単行本p.348、351


 編集者の側から見た文章もいくつか収録されています。


『喧嘩 雑誌編集者の立場』(高田宏)より
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 我慢は、ずいぶんした。小さな我慢を数え上げたらキリがない。編集者は我慢をするのが商売のようなものだ。締切りが来ているのに、なんだかんだと引きのばされても、じっと我慢して待つ。ギリギリのところでもらう原稿を、自分の睡眠時間をカットすることで何とか間に合わせる。書いていると聞いて安心していると、それが実は他誌の原稿であることが分かっても、我慢する。待ち合わせの場所へ著者が遅れてきても、三十分や一時間なら我慢する。遅れるなら電話一本くらいくれてもよさそうだと思っても、それは口にしないで、にこやかに我慢する。
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単行本p.234


『編集者の狂気について』(嵐山光三郎)より
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 多くの編集者の友が死んだ。ほとんどロクな死に方ではない。ムリして死んでいる。他の業界なら死ななくてすむのに死んでいる。仕事にこだわりすぎている。殉職といえばそれまでだが、編集者は同業の死のなかに自らを投影してこの稼業の無常を知る。
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単行本p.213


 というわけで、締切りをめぐる作家と編集者の因業がうかがえる一冊。他人事と笑いつつ、まじでこの業界どこかおかしいんじゃないの、と心配になります。



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