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『艸の、息』(松岡政則) [読書(小説・詩)]

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たびさきではいやなことはしないですむ
めしは姿勢をただしてだまって喰う
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『遊動するもの』より


 食べること、生きること、出合うこと。詩、聲、台湾。『口福台灣食堂紀行』に続く最新詩集。単行本(思潮社)出版は2015年9月です。

 松岡政則さんの詩集というと、とにかく『口福台灣食堂紀行』が素晴らしくて、個人的に「この人は台湾紀行詩を書く人」という印象がどうしても拭えません。ちなみに単行本読了時の紹介はこちら。

  2012年09月19日の日記
  『口福台灣食堂紀行』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-09-19


 本書にもいくつか台湾紀行詩は収録されていますが、まずは世相や詩作そのものを扱った作品が中心となります。


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じぶんでは考えない
群れたがるからどんどん弱くなる
たった二年やそこらでなにもなかったことにする
あれが、ふつうのひとびとだよ
ふつうのひとびとはおそろしいよ
いつの時代もそうだった
「賎民廃止令」反対一揆も
「非国民」をつるしあげたのも
ふつうのひとびとのやったことだった
ごくふつうの家のお父さんお母さんで
勤勉で実直で礼儀ただしい
あれが、おそろしい
ただしい聲はおそろしい
めいめいがめいめいの聲に戻れなくなるおそろしい
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『逃散する』より


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わかっている祖さまらの列には加われない
いまさらあやまりようがないのだ
因は、じぶんにある
からだのどこかすーすーする
ぱなるじん。
ばいあすぴりん。
もうなにが痛いのかもわからない街だ
やかましく差別をたのしんでいるのもいる
ひとはあんなふうにも振る舞える、げにおぞましき生きものだ
聲こそが本性だろう
文体とは態度のことだろう
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『三段峡行』より


 世相に詩の言葉はどう向き合ってゆくべきなのか、そもそも詩とは何なのか。自分にとってのその答えを探してゆきます。


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会ったことはないのだけれど
もう会ったようなものだ
詩集『キルギスの帽子』に
「村の一角」
という詩があって
くさのさなえを知った
いいやその孤独にじかにさわった、といっていい
一篇の詩とは
そういうものだ
(中略)
そうやって詩のつづきにいると
もうどんな自分でもかまわない、と思えてくる
くさのさなえの幼きものや
しどけないまで混じりこんできて
そのままバスのなかに住みつきたくなる
家庭がなんだ
一篇の詩とはそういうものだ
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『詩のつづきにいると』より


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夜の公園で
軋り音がする
ギーギー、ギーギー
だれかがブランコを漕いでいる
まぢかでみると中年の地味なおんなだった
こどもみたいに
ぐいぐい漕いでいる
ぐいぐいぐいぐい漕いで
しずかに怒っている
(中略)
ギーギー、ギーギー
おんながブランコを漕いでいる
いのちのかたまり漕いでいる
詩で、汚れるのもいる
土には還れないのもいる
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『漕ぐひと』より


 そして、心が向かう先は、台湾。


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地図をひろげる
新竹縣尖石鄉玉峰村司馬庫斯
玄武岩をつかった石版屋根の聚落
あわの畑、ももの林
異土のひかりにつつまれる
あこがれのスマグス
その奥深い杣道で
じげのものとすれ違う
かるく会釈をすると無骨な笑顔が返ってくる
そういう出会いをしてみたい
ことばを交わさない出会い
その一度きりを歩くのだ
地べたから伝わってくるもの
台灣はなんでだろう姿勢がよくなる
だれでもない雑じりっけなしの独りになる
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『異土のひかり』より


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嫌われないように傷つけないように誰もが器用に過剰に生きている、その不潔。名づけようのないものを哀しみといってみる、その不潔。見すぎた気がする、いいやまだなにほどのものも見ていない気がするその不潔。だまっている不潔。ちかくの建物に若いひとがつどっているようだ。「島嶼天光(この島の夜明け)」の大合唱が聞こえる。
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『南澳火車站』より


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台灣のどこでだったか庭の椅子にあんきに坐っておられた嫗。
なにも訊いていないのに(郵便屋さんをまっています。
かえりにもみた笑っておられたあれは永遠です。

たまかな暮らしにもどこかしら祝福があった。
こどもらの聲はそのままひかりのつぶつぶになった。
にがよもぎ。土徳の地にも命がけでついた嘘があっただろう。

川原にはがんらい名前がない道がない。
川に足を浸けてみるそうやって聲を清潔にする。
水のなかの足とひかり足とひかり鮴がちょこっと動いた今今。
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『たまもの』より


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しらない土地でバスをおり、
しらない者どうし互いのまなうらをとり換えてすれ違う、
それが旅にくらすということだ
うしろで苛ついていた大型トラックが
いまバスの横っ腹をぬいていく
三人乗りのバイクもうれしげにぬいていく
「我怎麼會這麼的開心(ぼくはなんでこんなに楽しいのだろう)」
クラウド・ルーの「歐拉拉呼呼」がかかっている
しらない川、しらない震え
もうからだのどこにも散文はない
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『民族街3巷』より


 こうして台湾を通じて詩と聲を取り戻してゆく様は感動的で、泣けてきます。他の国を扱った紀行詩も収録されていますが、個人的に、どうしても台湾を推したくなるのです。



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