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『この世にたやすい仕事はない』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

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それは、自分があるいっとき、これに人生の長い時間を費やすのだ、と決めた仕事から、自ら手を引いて、目を背けようとしていたのに、同じ場所で今も仕事をしている人と出くわしたことの気まずさと、裏腹のうらやましさを含んでいた。
(中略)
 それでええんやと思う、と箱田さんは付け加えたらしい。前におった人も、前の前におった人も、本筋の仕事でなんかあって公園に来た人みたいやったけど、この仕事で、まあ働けんねやな、と思って、そんでまた自分の仕事に戻ってったらええやん、と。
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単行本p.337、341

 ひどいパワハラで仕事を辞めた36歳の女性が、ハローワークで紹介された短期仕事を転々とする。それぞれに奇妙な、5つの職場、5つの仕事。働くことを通じて、彼女の心は次第に回復してゆく。職場小説の名人による五篇を含む連作短篇集。


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退職届だって、すべて『一身上の都合』で片付く。三十分に一度上司に嫌味を言われるだとか、指示書に間違って記された存在しない書類の紛失を自分のせいにされただとか、同僚に悪辣な噂を流されただとか、取引先のおやじと飲みに行かなかった後に仕事の内容を見直すことになってその責任を押し付けられたとか、どんな複雑な事情があっても、『一身上の都合』で丸めてしまう。
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単行本p.58


 過去の作品にも書かれていたような苛烈なパワハラを受けて、燃え尽きた女性が語り手となります。退職して引きこもり状態になっていた彼女が、紹介される短期仕事を次々と受けて働くうちに次第に回復してゆく、という連作短篇集です。

 ありそうでなさそうな奇妙な仕事。よく分からない不可思議な状況。とぼけたユーモラスな味わいのなかに、人が尊厳と生活を保つには色々あっても仕事に誠実に向き合ってゆくしかない、という覚悟をにじませる、心に響く作品です。そしていつもの通り、本筋とはあまり関係ない職場生活の細部や心理の描写が、圧倒的な共感を呼ぶのです。


『第1話 みはりのしごと』
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一日スキンケア用品のコラーゲンの抽出を見守るような仕事はありますかね? と相談員さんに条件を出してみた。だめもとだった。(中略)怒られるだろう、と思った。しかし、初老の相談員の女性は、「あなたにぴったりな仕事があります」と、その柔和な物腰にそぐわない感じで、キラリとメガネを光らせたのだった。
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単行本p.11

 最初に紹介されたのは、犯罪者でもスパイでも何でもない一般人の生活を、自宅に仕掛けられた監視カメラでずっと見張るというお仕事。録画した他人の生活をひたすら見るだけ、という普通なら耐えられそうにない退屈な仕事を淡々とこなす語り手。自分が買えなかったスーパーの特売ソーセージを監視対象者が食べているのを見て、ショックのあまりがっくりきたり。

 やがて、監視対象者が頻繁に背後を振り返って監視カメラに視線をやるようになったのだが……。


『第2話 バスのアナウンスのしごと』
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「だから一度、ないと思っていたのに現れた店の音声を、しばらく経ってから消してみて、それを送信したことがあるんだよ、江里口君にはもちろん内緒で」風谷課長は、本当に悪いことをしたとでも言いたげな、苦い顔付きで続ける。「その後、その店のあったところを見に行ったら、閉店していたんだ。看板も取り外されていて、よほど注意深く見て回らないとわからなかった。消えるように、なくなってしまったんだ」
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単行本p.85

 次に紹介されたのは、地域巡回バスの車内アナウンスに路線上の様々な店や施設の宣伝文句を入れて編集するというお仕事。先輩について作業を進めてゆくうちに、やがて語り手は奇妙なことに気づく。先輩の江里口さんが車内アナウンスに新しい店の宣伝文句を入れると、それまでなかった場所にいきなり店が出来るような気がしてならない。いや、まさかそんな馬鹿な。

 やがて上司が声をひそめて言い出す。実は自分も不思議に思って、江里口さんが入れた宣伝文句をこっそり削ってみたことがある。そしたら、新規開店したばかりのその店は、最初から存在しなかったように消えてしまったんだ……。


『第3話 おかきの袋のしごと』
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 なんでしょう。十歳から九十歳までを意識した上で、無難さは排除して、ニッチに徹するべきなんでしょうか、たとえばですけど、有名な心理実験について書くとか、と言うと、社長は、そういうのもありだね、とやや腰を浮かせ気味にしたので、私はあわてて首を振って、極端な一例ですが、と付け加えた。社長は、我に返ったように、そうだね、確かに極端だ、と椅子に坐りなおしたものの、なんだか残念そうではあった。
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単行本p.141

 次に紹介されたのは、お菓子の袋の裏に入れる「豆ちしき」を書くお仕事。見せてもらったサンプルがいきなり「世界の謎(17):ヴォイニッチ手稿」というものだったので戸惑う語り手。何でおかきの袋にヴォイニッチ手稿やジャージーデビルの話が。

 お菓子の購買者である十歳から九十歳まで誰もが興味を持つ話題で、もちろん問題になったりしない無難な内容で、しかし製品を強く印象づける尖った豆知識。そういうのをどしどし書いてほしいんだ。はあ。


『第4話 路地を訪ねるしごと』
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 でも、後に退くことはできなかった。私もまあ、『孤独に死ね』とか言われたらそりゃ怒るよってことだったのかもしれない。(中略)
 靴に足を入れて、塗料の缶を拾い上げ、私はカニ歩きで、どこへ続くともしれぬ暗い建物の隙間を進んだ。何をばかなことをしているのか、と自分でもわかっていた。しかし、それを上回って、こうしてやる、と思った。そっちが『孤独に死ね』って言うんなら、このぐらいのことはしてやる。
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単行本p.240、248

 次に紹介されたのは、地域を回ってポスターを貼り替えるというお仕事。最初は地味で単純な仕事と思えたが、実は、ポスターを貼るということが、ある宗教団体との陣取り合戦になっていることが判明。いわば、アナログIngress。

 頑張って敵の勢力範囲を狭めているうちに、事務所のシャッターにスプレーで『孤独に死ね』という陰湿な落書きをされる。それが「毎日つつがなく暮らしたい、これ以上、働くことから余計な感情を押し付けられたくない」(単行本p.72)と思っていた語り手の何かを突き刺し、怒りを引き出した。こうなったら退かない、やってやる。


『第5話 大きな森の小屋での簡単なしごと』
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「森閑」という言葉があるけれども、木々に囲まれてまさしくその通りの状況の中、ひたすら『大スカンジナビア展』のチケットにミシン目を入れていると、どこか心地好い気分にすらなってくる。無心という状態である。まだこの仕事を始めて数時間だが、軽率で調子がいいと思いつつも、自分はこの仕事に向いているんじゃないかという気がしてくる。前任者はなぜ、こんな心静かでらくな仕事を辞めてしまったんだろうか?
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単行本p.277

 携帯電話すら繋がらない静まりかえった無人の森の奥にある小屋。そこで一日中チケットにミシン目を入れるという簡単なお仕事。前任者は心を病んで辞めてしまったという。語り手は不思議に思うが(不思議ですか?)、やがて、薄々気づいてゆく。自分以外の誰か、あるいは何かが、この森にいることに。



タグ:津村記久子
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