『常識の路上』(町田康) [読書(随筆)]
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いま小説を書ける奴は小説家じゃないよねぇ、と死んだ父に語りかけて小説を書いている。四月号と言いながらその実、三月に出て、その実、そこに載る文章を一月に書いていること。その矛盾がいま露になってなにも言えない。
おほほ。じゃったらそばを茹でましょうか。じゃかましいわ、ぼけ。
(中略)
いつになるかわからぬが、むかしのことにたどりついてそことここの距離まで身長を伸ばして身体を裂いて醜態を晒して笑いものになるしかないような気がしていることをこうやって書くこと自体が笑いものと気づかぬアホはいずれ滅びる。つかもう滅びてる。そう頭のなかの庭に来た小鳥が言って飛び立ったのでそのまま書いた俺って一寸アレだね。皆の衆ぅうう、皆の衆。ごめんな。腹立たしかったら腹から殴れ。でもワイルドサイドを歩け。でもワイルドサイドを歩け。つか歩く。
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単行本p.241、242
シリーズ“町田康を読む!”第47回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、1999年から2015年までに書かれた単行本未収録作品のうち、旅行記(ニューヨーク、ドイツ、上海など)、書評、音楽評論、身辺雑記など、様々なことについて書かれた文章から著者自身が選んだ傑作選。単行本(幻戯書房)出版は、2015年8月です。
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人間によらず禽獣によらず生き物は死んだら終わりで魂はあの世を彷徨うのかも知れぬがこの世にはなにも残らない。けれどしかれど言葉は残る。
稀にときどき言葉が残る。
この世の水面に投ぜられたる石の如きその言葉は幾重にも、どこまでも広がる輪を水面に描く。
その輪はどこまでも広がる。いつまでも広がる。何度でも始まる。
なぜそんなことになるのか。石が言葉が極度に巨きかつたからか。石が言葉が途轍もなく高いところから落ちてきたからか。
そんな疑問が生じたのでムービーのカメラを担げてライトとバッテリーを持つて竿の先に取り付けたマイクを掲げてヴィヴィアン・ウェストウッド着て中原中也記念館に参つて権現山に登つて河原に立ちて風に吹かれてみたり昇仙峡に行きて巌のうえで凍えたりもしたのだけれども、おほほ、わかりませんでした。
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単行本p.145
最初は旅行記から始まります。ニューヨーク、上海も面白いのですが、特に、ベルリンで開かれた日本文学に関するイベントに招待されたときの体験が印象に残ります。
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しかしいくら話してもよい思案が浮かばない。
そして話すうちに指南場所はどんどん暗くなっていき、とうとう俯いたままなにも言わなくなった。
しばらく黙っていた指南場所はややあって顔を上げ、言った。
「ハキリ言ってシッパイだったと思います」
ぎゃん。自分は椅子から落ちた。
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単行本p.62、63
翌日に予定されている自作朗読イベントの段取りについて相談しているうちに、世話役のドイツ人から「シッパイだったと思います」と言われて愕然とする著者。ドイツまで行って、何もしないうちにこの企画は失敗だったと宣言されてしまったからには、もうどこに行っても何を見ても「シッパイだったと思います」としか感じなくなってしまう。はたしてイベントの行方は、そして現場にいる多和田葉子さんは助けてくれるのか(くれません)。
書評や作家論もたくさん収録されています。理屈ではなく、自らの体験を通して作家を語るスタイルにしびれます。
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ひときわ異様な感じがするのは木登りの映像であって、おそらく作家自宅訪問なんてな映像を撮影していたのであろうが、家の前、芥川は浴衣様の着物を着てよらよらしているのだけれども、やがて玄関脇の木にとりつくと猿のごとくに登りはじめ、裾を乱して屋根の高さまで登ると枝に立ち幹を持って揺すぶる、幹に抱き付くなどし、ややあって屋根に飛び移ると屋根の上で万歳をしたり、咆哮したりしているのである。(中略)
そしていま、このことをまた思い出したのは、久世光彦『蕭々館日録』を読んだからで、自分はあのときはなぜ六回もあの映像を繰り返して見て、頭が真空になったのか、ということを考えた。
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単行本p.132、134
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それきり沙汰やみとなり、『仰臥漫録』の文庫本を手に取ることもなかったのだけれどもしかし、少しでも人並みに近づきたい、道を歩いていて向こうから来た人に、「ええいここなもの知らずめがっ」と嘲られ、腹を殴られ、一言も言い返せずに悔し涙にくれる、というような暮らしから逃れたい、という思いから遅蒔きながらこれを読んだ。驚いた。
人間が生きる、ということについてのほぼすべてがそこに書いてあったからで、通常、そういうことは不可能であるからである。(中略)苦しみも楽しみも含めて生きることのすべてがここに記されているということで驚倒した私は書店に全力疾走、子規関連の書籍を手当り次第に買い、全力疾走で戻ってきたところである。
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単行本p.141
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十七歳のとき、友人と喫茶店で話していて、おい、おまえなにしてんねん。と言われました。そのとき私はテーブルの上の、二人分のコーヒーカップ、水、おしぼり、タバコ、ライターなどを整然と対角線上に配置していました。そのとき私は自分が物の曲がっているのが嫌であることに初めて気がついたのですが、だからこの小説を読んだときは驚きました。自分のことが書いてあるような気がしたのです。以来、内田百聞は大好きな作家で、いまも折りに触れて読み返しています。
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単行本p.149
他にも、音楽評論、猫や犬(もちろん語りはスピンク)、その他についての様々な文章がぎっしり詰まっていて、飽きさせません。
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例えばプラグの抜き差しなどを行うときがそうで、男なら、抜こうとして抜けない場合は、まずこの構造を確かめ、あ、そうか。左右の釦を押しながら抜くと抜けるのだな、と了知了解してこれを抜くところ、女は、抜けないとなると力任せにこれを抜こうとしてぐいぐい引っ張り、ついにこれを破壊してしまい、男は、「ああ、力で解決しないで」と絶望的な声を挙げる。クルマのシートベルトしかり。服のゴムの伸び具合を確かめるときしかり。女人はそのたおやかな外見とは裏腹に遠慮会釈なく行使してこれを破壊する。男はその都度、絶望する。でも、そんな女が僕は好き。僕は好き。
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単行本p.187
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いま私方には二人の人間と九人の猫がいる。と書いたら校閲部の人に、「お母さんの許可はとっているのですか? ママOK?」と訊かれるに違いないのは、ものにはそれぞれ固有の数え方というものがあって、犬や猫は、匹、頭というのが正しいからである。
それを知りながらあえて、人、というのは我が家では猫はこれを憐れみ、根本これ畜類である猫を人も同然に遇することにしているからである。
と書いて心が苦しくなるのはそれが嘘だからで、正直に言うと、我が家では、猫を憐れむ、というよりも、猫を尊んでいるし、人も同然に遇するどころか、人以上にお世話をさせていただいており、むしろ、二匹の人間と九人の猫がいる、と言った方が正確かもしれない。
なぜそんなことになっているかというと、人間と猫を比べた場合、猫の方が偉く魂のクラスが上高いからである。
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単行本p.198
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フェイスブックという交流サイトを利用しているが不調である。頁を開き、見るにつけ人との交流をすべて絶ち、剃髪の挙げ句、山中の洞窟に籠もって『ドカベン』全四十八巻を読破したいような気持ちになる。なぜそんな気持ちになるのか。そりゃ鬱陶しいから。(中略)
三週間がとこ閲覧しないでいたのだが昨日、なんとなく気になって閲覧したところ、先週、身内の懇親パーティがあり、私を除くみんなが集まって飲食し、和合したということを知った。もしかして俺って、外み子? という気持ちの毒で全身が痺れたようになって動けなかった。私は十二分くらい、その記事や写真を見ていた。
コメント蘭に、「全員、死にやがれ、クソ野郎ども」と書き込もうと思った。しかしそれも角が立つと思い直して、いいね! の釦を押し、とりあえず『ドカベン』第一巻を注文した。そのあと、歌を詠もうと思ったけれども思うように詠めなかったので半泣き半笑いで踊った。という長文を何度かに分けて近況として書き込んだのに誰からもなんの反応もない。
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単行本p.208、210
あとがきによると、過去に書かれた原稿から一年余りをかけて選んだとのことで、さすがというか、とにかく素晴らしい充実っぷり。すべてが傑作、何もかもが名作。とにかく読んでみてほしいとしか言いようがありません。つか読め。
いま小説を書ける奴は小説家じゃないよねぇ、と死んだ父に語りかけて小説を書いている。四月号と言いながらその実、三月に出て、その実、そこに載る文章を一月に書いていること。その矛盾がいま露になってなにも言えない。
おほほ。じゃったらそばを茹でましょうか。じゃかましいわ、ぼけ。
(中略)
いつになるかわからぬが、むかしのことにたどりついてそことここの距離まで身長を伸ばして身体を裂いて醜態を晒して笑いものになるしかないような気がしていることをこうやって書くこと自体が笑いものと気づかぬアホはいずれ滅びる。つかもう滅びてる。そう頭のなかの庭に来た小鳥が言って飛び立ったのでそのまま書いた俺って一寸アレだね。皆の衆ぅうう、皆の衆。ごめんな。腹立たしかったら腹から殴れ。でもワイルドサイドを歩け。でもワイルドサイドを歩け。つか歩く。
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単行本p.241、242
シリーズ“町田康を読む!”第47回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、1999年から2015年までに書かれた単行本未収録作品のうち、旅行記(ニューヨーク、ドイツ、上海など)、書評、音楽評論、身辺雑記など、様々なことについて書かれた文章から著者自身が選んだ傑作選。単行本(幻戯書房)出版は、2015年8月です。
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人間によらず禽獣によらず生き物は死んだら終わりで魂はあの世を彷徨うのかも知れぬがこの世にはなにも残らない。けれどしかれど言葉は残る。
稀にときどき言葉が残る。
この世の水面に投ぜられたる石の如きその言葉は幾重にも、どこまでも広がる輪を水面に描く。
その輪はどこまでも広がる。いつまでも広がる。何度でも始まる。
なぜそんなことになるのか。石が言葉が極度に巨きかつたからか。石が言葉が途轍もなく高いところから落ちてきたからか。
そんな疑問が生じたのでムービーのカメラを担げてライトとバッテリーを持つて竿の先に取り付けたマイクを掲げてヴィヴィアン・ウェストウッド着て中原中也記念館に参つて権現山に登つて河原に立ちて風に吹かれてみたり昇仙峡に行きて巌のうえで凍えたりもしたのだけれども、おほほ、わかりませんでした。
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単行本p.145
最初は旅行記から始まります。ニューヨーク、上海も面白いのですが、特に、ベルリンで開かれた日本文学に関するイベントに招待されたときの体験が印象に残ります。
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しかしいくら話してもよい思案が浮かばない。
そして話すうちに指南場所はどんどん暗くなっていき、とうとう俯いたままなにも言わなくなった。
しばらく黙っていた指南場所はややあって顔を上げ、言った。
「ハキリ言ってシッパイだったと思います」
ぎゃん。自分は椅子から落ちた。
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単行本p.62、63
翌日に予定されている自作朗読イベントの段取りについて相談しているうちに、世話役のドイツ人から「シッパイだったと思います」と言われて愕然とする著者。ドイツまで行って、何もしないうちにこの企画は失敗だったと宣言されてしまったからには、もうどこに行っても何を見ても「シッパイだったと思います」としか感じなくなってしまう。はたしてイベントの行方は、そして現場にいる多和田葉子さんは助けてくれるのか(くれません)。
書評や作家論もたくさん収録されています。理屈ではなく、自らの体験を通して作家を語るスタイルにしびれます。
--------
ひときわ異様な感じがするのは木登りの映像であって、おそらく作家自宅訪問なんてな映像を撮影していたのであろうが、家の前、芥川は浴衣様の着物を着てよらよらしているのだけれども、やがて玄関脇の木にとりつくと猿のごとくに登りはじめ、裾を乱して屋根の高さまで登ると枝に立ち幹を持って揺すぶる、幹に抱き付くなどし、ややあって屋根に飛び移ると屋根の上で万歳をしたり、咆哮したりしているのである。(中略)
そしていま、このことをまた思い出したのは、久世光彦『蕭々館日録』を読んだからで、自分はあのときはなぜ六回もあの映像を繰り返して見て、頭が真空になったのか、ということを考えた。
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単行本p.132、134
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それきり沙汰やみとなり、『仰臥漫録』の文庫本を手に取ることもなかったのだけれどもしかし、少しでも人並みに近づきたい、道を歩いていて向こうから来た人に、「ええいここなもの知らずめがっ」と嘲られ、腹を殴られ、一言も言い返せずに悔し涙にくれる、というような暮らしから逃れたい、という思いから遅蒔きながらこれを読んだ。驚いた。
人間が生きる、ということについてのほぼすべてがそこに書いてあったからで、通常、そういうことは不可能であるからである。(中略)苦しみも楽しみも含めて生きることのすべてがここに記されているということで驚倒した私は書店に全力疾走、子規関連の書籍を手当り次第に買い、全力疾走で戻ってきたところである。
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単行本p.141
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十七歳のとき、友人と喫茶店で話していて、おい、おまえなにしてんねん。と言われました。そのとき私はテーブルの上の、二人分のコーヒーカップ、水、おしぼり、タバコ、ライターなどを整然と対角線上に配置していました。そのとき私は自分が物の曲がっているのが嫌であることに初めて気がついたのですが、だからこの小説を読んだときは驚きました。自分のことが書いてあるような気がしたのです。以来、内田百聞は大好きな作家で、いまも折りに触れて読み返しています。
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単行本p.149
他にも、音楽評論、猫や犬(もちろん語りはスピンク)、その他についての様々な文章がぎっしり詰まっていて、飽きさせません。
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例えばプラグの抜き差しなどを行うときがそうで、男なら、抜こうとして抜けない場合は、まずこの構造を確かめ、あ、そうか。左右の釦を押しながら抜くと抜けるのだな、と了知了解してこれを抜くところ、女は、抜けないとなると力任せにこれを抜こうとしてぐいぐい引っ張り、ついにこれを破壊してしまい、男は、「ああ、力で解決しないで」と絶望的な声を挙げる。クルマのシートベルトしかり。服のゴムの伸び具合を確かめるときしかり。女人はそのたおやかな外見とは裏腹に遠慮会釈なく行使してこれを破壊する。男はその都度、絶望する。でも、そんな女が僕は好き。僕は好き。
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単行本p.187
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いま私方には二人の人間と九人の猫がいる。と書いたら校閲部の人に、「お母さんの許可はとっているのですか? ママOK?」と訊かれるに違いないのは、ものにはそれぞれ固有の数え方というものがあって、犬や猫は、匹、頭というのが正しいからである。
それを知りながらあえて、人、というのは我が家では猫はこれを憐れみ、根本これ畜類である猫を人も同然に遇することにしているからである。
と書いて心が苦しくなるのはそれが嘘だからで、正直に言うと、我が家では、猫を憐れむ、というよりも、猫を尊んでいるし、人も同然に遇するどころか、人以上にお世話をさせていただいており、むしろ、二匹の人間と九人の猫がいる、と言った方が正確かもしれない。
なぜそんなことになっているかというと、人間と猫を比べた場合、猫の方が偉く魂のクラスが上高いからである。
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単行本p.198
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フェイスブックという交流サイトを利用しているが不調である。頁を開き、見るにつけ人との交流をすべて絶ち、剃髪の挙げ句、山中の洞窟に籠もって『ドカベン』全四十八巻を読破したいような気持ちになる。なぜそんな気持ちになるのか。そりゃ鬱陶しいから。(中略)
三週間がとこ閲覧しないでいたのだが昨日、なんとなく気になって閲覧したところ、先週、身内の懇親パーティがあり、私を除くみんなが集まって飲食し、和合したということを知った。もしかして俺って、外み子? という気持ちの毒で全身が痺れたようになって動けなかった。私は十二分くらい、その記事や写真を見ていた。
コメント蘭に、「全員、死にやがれ、クソ野郎ども」と書き込もうと思った。しかしそれも角が立つと思い直して、いいね! の釦を押し、とりあえず『ドカベン』第一巻を注文した。そのあと、歌を詠もうと思ったけれども思うように詠めなかったので半泣き半笑いで踊った。という長文を何度かに分けて近況として書き込んだのに誰からもなんの反応もない。
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単行本p.208、210
あとがきによると、過去に書かれた原稿から一年余りをかけて選んだとのことで、さすがというか、とにかく素晴らしい充実っぷり。すべてが傑作、何もかもが名作。とにかく読んでみてほしいとしか言いようがありません。つか読め。
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