SSブログ

『悟浄出立』(万城目学) [読書(小説・詩)]

--------
もう、お前から続く道ではない。これからは、俺一人が進む道なのだ。
--------
Kindle版No.1524

 世に知られた英雄だけが主役ではない。沙悟浄、趙雲、虞美人、司馬遷の娘など、脇役扱いされがちな、あるいは歴史に名を残さなかった人物を語り手として起用し、中国古典に名高い出来事の傍らで彼らの内面に起きていた変化を丁寧に描く歴史小説短篇集。単行本(新潮社)出版は2014年7月、Kindle版配信は2014年12月です。

 『とっぴんぱらりの風太郎』に続く著者の歴史小説第二弾ですが、前作がどちらかといえば忍者エンターテイメントだったのに対して、今作は本格的な歴史小説となっています。今後も歴史小説作家への道、さらには国民作家への道を歩んでゆくつもりなのか。注目したいと思います。


『悟浄出立』
--------
八戒が悟空の言いつけを破り、自ら危地に飛びこむだろう、ととっくの昔に承知していたにもかかわらず、俺は何も行動せず、何も発言せず、今もこうして黙って宙に浮くのみである。(中略)俺はいつからこうも力なき傍観者となり果てたのか。
--------
Kindle版No.126

 『西遊記』ご一行のなかで最も目立たない沙悟浄。ただ最後尾を黙々とついてゆくだけだった彼が知った、八戒の意外な過去。悟浄の心の中で静かに、だが着実に、何かが変わってゆく。


『趙雲西航』
--------
兵士らの威勢のいいかけ声を聞きながら、趙雲はいまだ胸にくすぶる不快の正体に、静かにたどり着こうとしていた。いや、正確には向こう側から、漂い流れてきたというべきか。
--------
Kindle版No.675

 建安19年。張飛、趙雲、諸葛亮は、成都を目指し、軍勢とともに長江を遡行していた。趙雲は船酔い、張飛は持病の痔が悪化、諸葛亮は風邪をひいて鼻ずるずる。どうにもぴりっとしない三人ではあった。

 『三国志演義』では飛ばされてしまうであろう、劇的なことが何も起きないだらだら時間のなかで、趙雲はふと己の心の中に生じた不快さに気づく。自分は何を恐れているのか。諸葛亮との会話を通じ、趙雲は自分自身の本音を見つめるのだった。


『虞姫寂静』
--------
女は覇王から、簪と耳飾りを取り戻した。さらに名をも取り戻した。あとひとつ、取り戻すべきものがある。
--------
Kindle版No.1124

 始皇帝亡き後、劉邦と天下を争った項羽。その傍にいつも控えていたという寵姫、虞美人。京劇『覇王別姫』のヒロインは、しかし、本名も、生い立ちも、それどころか項羽との出会いからその最後まで、何一つ歴史には残されていない。彼女は果たして何者だったのか。四面楚歌(オリジナル)のなか、何もかも失った彼女は、壮絶な戦いに挑んでゆく。自らの人生を取り戻すために。


『法家孤憤』
--------
「どうだ、滑稽な話と思うか? 陛下の命が失われたら、我々の国はおしまいだ。我々が作り上げた法は、あっという間にただの竹屑になる。それなのに、我々は法に従って、誰も衛兵を呼びに行かなかった。あるじが命を落とす瀬戸際にもかかわらず。おぬしはどう思う? 我々は馬鹿の集まりか?(中略)確かに、滑稽だ。だが、それが法治というものなのだ」
 その声には俺や上役に対してではなく、正面に続く暗い一本道に向け宣言するような、どこか孤独な響きが漂っていた。
--------
Kindle版No.1402、1410

 燕の荊軻による始皇帝暗殺未遂事件に巻き込まれた小役人は、そのとき辛くも生き延びたのは「法治主義」という革新的思想だということを悟る。誰からも好まれない、しかし世界を一つに束ねるために他にない道。

 徳治主義vs法治主義という、現在も中国を揺るがせ続けている対立軸の起源を描いた劇的な短篇で、旧作『プリンセス・トヨトミ』を連想させるものもあり、個人的に本短篇集のなかで最もお気に入り。


『父司馬遷』
--------
三年前、私たちは苦しんだ。父を捨てることで、その苦しみから逃れた。だが、父はその間、一人で牢の奥につながれ、獄を出た今も、変わらず続く辛苦のただ中にいるのだ。
--------
Kindle版No.1858

 耐えがたき屈辱と絶望のなかで、歴史書を執筆する決意を固めた司馬遷。その勇気を与えたのは、彼の娘だった。「士は己を知る者のため死す」。かつて教えた言葉が娘の口から峻烈な檄として放たれたとき、『史記』へと続く道が開かれてゆく。

 誰からも省みられない非力な娘が、言葉の力をもって、歴史そのものを救うという感動的な物語。万城目学さんの作品にはたいてい劇的な対決が登場しますが、屈指の名対決シーンというなら、この短篇における父娘対決ではないでしょうか。


タグ:万城目学
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0