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『美術品はなぜ盗まれるのか ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い』(サンディ・ネアン、中山ゆかり:翻訳) [読書(教養)]

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危機管理の意識が高まり、また美術館や公的なギャラリー内の警備態勢が著しく改善されているにもかかわらず、ここ半世紀の間に美術品の強奪は増大した。美術品窃盗は、大きなビジネスとなっているのだ。(中略)盗まれた美術品や古代遺跡の国際市場は年間で50億ドル(約4500億円)相当の規模となっている。規模・影響力ともに、麻薬取引、マネーロンダリング(資金洗浄)、そして非合法な武器販売に次いで、国際的な犯罪のトップランクを占めているのだ。
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単行本p.10

 1994年7月末、英国テート美術館が所有するターナーの重要な絵画二点が強奪された。それは、8年半にも及ぶ長い苦難の始まりだったのだ。有名なターナー盗難事件の当事者が、美術品盗難事件について語った一冊。単行本(白水社)出版は2013年2月です。

 ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』や、ムンクの『叫び』といった、あまりにも有名で“価格のつけようがないほどの”価値がある美術品が強奪されたというニュースは、私たちの好奇心を強く刺激します。犯人グループは、いったいそれを、誰に、どうやって、売るつもりなのか。

 また、そういった盗難品が最終的に美術館に取り戻されたというニュースには、いったいどんな経緯で誰が「取り戻した」のか、そこに何やら公にできないような後ろ暗い取引はなかったのか、これもまた誰もが気にかけることでしょう。

 本書は、ターナー盗難事件の当事者である学芸員が、その内幕を詳細に語るとともに、上に示したような疑問に答えてくれるものです。

 全体は二部構成となっています。まず第一部では、ターナー盗難事件の経緯がまさに当事者の立場から語られます。それは基本的には、警察、保険会社、裁判所、取引仲介者、そして絵画を実際に手にしている〈あちら側〉との、果てしない交渉の連続でした。


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たとえ〈あちら側〉もまた取引を進めたいのだとしても、すべてがお膳立てされるやいなや、そのたびに約束の日時を凍結される。それがただ、囮捜査や秘密裏の監視に対する彼らの心の中にある怯えのせいならば、その神経をなだめる手だては我々にはなかった。
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単行本p.160

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すでに七年半も待っており、あともう少し余計に待ったとしても、それにどんな違いがあるだろう。私がこのストレスに満ちた駆け引きに耐えられるのはまちがいないし、結局は〈あちら側〉も、テートこそが唯一現実的なオファー先だと理解するのではなかろうか。(中略)
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私の期待感はときおり大きくなり、そしてまた打ち砕かれた。だが少なくとも、期待を抱いている限りは、気丈さを保つことができた。
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単行本p.144、155


 約束は反故にされ、予定はキャンセルされ、計画は変更を繰り返した挙句に破棄され、出された許可は信じてもらえず、希望と失意の繰り返しを、何と8年半にも渡って味わい続けた著者の苦難。読んでいるだけでぐったりするようなストレスの連続。最終的に絵を取り戻したときには、読者も肩の荷を下ろしたような安堵感に包まれます。

 続く第二部では、美術品盗難事件について様々な角度から分析を加えてゆきます。まずは、犯人の動機。


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高額美術品は犯罪者にとって、非常に優れた〈商品〉なのだ。連中が重要な絵を盗むと、我々はご丁寧にもそれを宣伝し、新聞紙上でその価格と絵柄まで見せてやっている。これは、連中が仲間の犯罪者のもとに行き、麻薬や銃の頭金や担保に絵を使うことを意味している。新聞報道で絵の来歴を示し、何百万ドルもの価値があることを教えてやっているわけだ。
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単行本p.261

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窃盗犯たちは、盗品を現金化する取引の場として独自のネットワークを使う。他の違法な品物との物々交換、すなわちバーター取引というかたちを通じ、あるいは担保として使用することで、盗難美術品を取引する際の不確実性さを回避しているのだ。(中略)
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盗難にあった場合には、他の犯罪取引の担保として使われるか、犯罪者間の取引に便利な品として物々交換に付され、もう一つ別の価値をもつことになる。美術品が、裏社会の〈通貨〉となるのである。
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単行本p.202、307


 つまり美術品は〈通貨〉として犯罪者ネットワークを流通し、様々な取引に使われ所有者から所有者へと渡っていった挙句、ときに長い年月の後に、合法的に現金化される(返還の「手助け」あるいは「情報提供」に対する「報奨金」として美術館から金を受け取る)というわけです。なるほど、実行犯が盗品をどのように処分するか悩まなくていい理由がよく分かります。

 最終的に「現金化」できることが保証されているからこそ犯罪者の間で〈通貨〉として流通するのであれば、合法的な現金化を断固として阻止すべきではないでしょうか。その意味で、テート美術館が保険金の一部を現金化して〈あちら側〉に支払ったのは、それは誘拐犯に身代金を支払うのと同じく犯罪を助長する行為ではないのでしょうか。そのような批判も実際にあったそうです。


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提供された情報について金を支払うことと、盗まれた財産を買い戻すために懸賞金を使うことの間の境界線は微妙であり、捜査する側にとってそれは、法律面での危険性をはらんだ、きわめて大きな注意を要する領域なのである。(中略)
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デイリー・テレグラフ紙の記事も、またその他のコメントや文書類も、この問題に対して相当の関心と懸念を寄せているが、それと同時に「身代金」や「懸賞金」「買い戻し金」、さらに「情報提供料」といったさまざまな言葉の使い方に大きな混乱があることも明らかにしている。(中略)
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警察の認可を受けた適切な懸賞金や情報提供に対する支払いと、身代金要求に応じたり、買い戻しを行なうこととの間に一線を引くためには、「倫理」という枠組みこそが使われうるのである。
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単行本p.191、193、201


 こういった被害者側の倫理的あるいは法的な問題の他にも、美術品盗難に関わる様々な論点が示されます。そもそも美術品にあまりにも巨額の金銭的価値を認めることが犯罪の原因になっているのではないか、美術品を一般に広く公開するという使命と防犯(そして限られた予算)というジレンマをどのようにして解決すればいいのか。

 個人的に最も興味深く読んだのは、美術品盗難に関する「神話」がいかに事実から遠く、しかも悪影響を与えているか、という論点です。


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フィクションは重大な盗難事件にバラ色の見方を提供する。まるでそれが、善と悪のはざまにおける何かエキサイティングで勇敢で、そしていくらか英雄的な闘いであるかのように。そこでは犯罪者ないし探偵は、まるでアーティストのように一人の〈アウトサイダー〉として描かれる。
 だが現実の組織犯罪の世界は、麻薬売買、売春、密輸、強奪、非合法な武器密売に関わる粗暴なコネクションの世界だ。フィクションのイメージとはまったく違うが、それが真実の姿なのだ。過去十年から十五年の間に起きた高額美術品の盗難の多くの共通項は、盗まれた作品が麻薬取引の担保として使われている可能性だ。
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単行本p.13

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美術品泥棒の映画にはどれも、いくつか共通の要素が流れており、それが彼らの姿に対するフィクション上の見方を確固たるものにしている。(中略)ラッフルズのように、建前的には高いレベルの良心をもち(肉体的な魅力と英雄的な精神に加え、銃は使わないといった性格を備えている)、犯罪者として非難を受けることを避け、(アンチ)ヒーローとして生き残ることができる。(中略)
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《モナ・リザ》の盗難以来、過去百年間、神話づくりの力はその熱意を増大させてきており、それがこの種の窃盗行為を理解するためのより合理的なアプローチを混乱させてきた。そしてさらに悪いことに、美術品の窃盗と、またこれに関連する犯罪に効果的に対抗するための試みをも、秘かに妨害してきた。エンタテインメント性を重視する映画やフィクションの世界は、意図せぬうちに、犯罪削減のために一致団結しようとする人々の取り組みの障害となっているのである。
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単行本p.282、291


 これらの議論と並行して、『モナ・リザ』、『叫び』、フェルメール、レンブラント、マネ、そして最近では2010年に起こったパリ市立近代美術館からマティス、モディリアニ、ピカソなどの作品(最低でも100億円規模)が強奪された事件に至るまで、様々な美術盗難事件の顛末が紹介されます。知らなかったことが多く、興味深く読むことが出来ます。

 というわけで、美術品盗難という微妙にロマンティックな響きのある犯罪の実態と、そこで実際に起きていることを詳しく教えてくれる本です。実際に起きた事件の当事者による手記としても面白いのですが、美術品窃盗という犯罪に関する様々な情報や議論も興味深く、こうした問題に関心のある読者にお勧めします。


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