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『偽記憶』(入沢康夫) [読書(小説・詩)]

 「(このとき 九歳の私には判らなかつたが 二つの岬に区切られた水平線のあたりにぼんやりと白い大入道がたちはだかつて 私を 私だけを 凝視してゐたのだ)」
  (『海辺の町の思ひ出』より)

 体験したはずがないのに、なぜかはっきりと覚えている出来事。偽記憶の感触を生々しく表現した詩集です。長篇詩『かはづ鳴く池の方へ』と合わせて、『かりのそらね』として一冊にまとめられました。単行本(思潮社)出版は2007年11月です。

 誰にでも覚えがある、幼い頃の釈然としない不思議な記憶。いやまさか本当のこととも思えないので、偽記憶というべきでしょうか。でも、その生々しさときたら。

 例えば、子供の頃、理髪店で見かけた、まるで水が止めどなく動き続けているように見える不思議な仕掛け。散髪されている間ずっと見て、感心していたのに。

 「ところが散髪が終つて代金を払うのもそこそこに 理容師の小父さんに聞いて見ようとした時には もうその水は動いてゐなかつた 夢でも見たんだらうと小父さんにからかわれて外へ出たけれども 釈然としなかつた そして釈然としないのは 何年も何十年も過ぎた今でも まだ……」
  (『理髪店のラヂオの思ひ出』より)

 あるいは、駅で列車を待っていたとき、ふと思い付いて、プラットホームの端まで歩いてみたときのこと。

 「ところが どうだらう 行つても行つても 端まで行き着けないのだつた 歩くにつれてプラットホームもぐんぐん伸びて行く もうその先端は霞んで見えないほど」
  (『山あひのプラットホームの思ひ出』より)

 そして、夕暮れ時に峠で見かけた、あの女の人。

 「もはや峠も頂きに近く 傾斜がいくぶん穏やかになつたところに 朽ち歪んだ小さな堂があつて この峠にかかつて最初の人間に出会つた 中年の 目尻のつり上がった 厚化粧の女 堂脇の石に腰を下ろし 膝に拡げた新聞紙から 何かをつまみ出して食べてゐる ガサガサと紙が鳴り カリカリと噛む音がする」
  (『大きな峠の思ひ出』より)

 今にして思うと、もうすぐ日が暮れるというのに、そんな山中に人が、それも女一人で、いるものでしょうか。何をしていたのでしょうか。ガサガサ、カリカリ。音の感触が不気味で、どうにも居心地の悪い気配が消えません。

 という具合に、偽記憶の不思議をテーマにした作品が並ぶ連作詩です。読んでいるうちに、忘れかけていた釈然としない自らの記憶が次々と思い出されるようで、怖いような、懐かしいような、そんな気分になります。

 最後に、個人的に感銘を受けたシーンを引用しておきましょう。従兄と一緒に山に向かっていた途中、弁当でも食べようかと石原に足を踏み入れたときのこと。

 「だしぬけに日が翳り すべてがまるでモノクロームの画面のやうに いや むしろネガの画面のやうになつた 「あ あれ」 従兄の指さす方をみると 百メートルほど上手の そこだけ大きめの石を集め ケルンといふのだらうか 積み上げてあるのを取巻いて みな同じ背丈で 一様に白い衣装をまとつた大勢の(三四十人はゐたらうか)子どもが踊りながら回つてゐる----唄つてゐるのは口が一斉に開いたり閉じたりするので判る けれども 声はまつたく聞こえない」

 「厚い雲が去つて あたりに色彩が戻つたとき 石積みの周りにもはや子どもたちの姿は無かつた ただし その恰度真上に当たる空に 淡い淡い昼の月が懸つてゐた」
  (『山麓の石原の思ひ出』より)

 踊る小人たちの目撃譚。「ケルン」は妖精を、「真上の月」は宇宙人を、それぞれ連想させます。その両義性によって、「解釈」される前のむき出しの遭遇体験が見事にとらえられています。いい味出してますよね。


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