SSブログ

『カソウスキの行方』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

 「好きになったということを仮定してみる。「好きになる」とか「恋に落ちた」より文字数が多いが大丈夫だろう。仮想好き。これで文字数も減った」(文庫版p.41)

 会社からの理不尽な扱いを耐え忍んでいる女性が、元気を出すために仮想好き、カソウスキに取り組む表題作など、三篇を含む短篇集。単行本(講談社)出版は2008年02月、文庫版出版は2012年01月です。

 将来の展望なんてなく、職場ではパワハラまがいの嫌がらせ。生活のために色々なことをじっと我慢し、恋愛にも夢や希望が持てない。そんな働く女性のリアルな心理を、切なさと妙な滑稽さを込めて表現し、読者の共感を呼ぶ作品が揃っています。


『カソウスキの行方』

 何の落ち度もないのに左遷され、撤去が決まっている郊外の倉庫で働くはめになったイリエ。男の幼稚な妄想じゃあるまいし「倍返しだ!」とか叫んでどうにかなるわけもなく、生活のためにひたすら耐えて雑用をこなす毎日。

 「勤務中に、ごくたまにそのことを思い出すと、雄叫びを上げながら、座っている椅子を窓から投げたくなる。あの仕事もあの仕事もあの仕事もごまかし、あの備品もパクればよかった、あの子もいじめておけばよかった。やり損ねた悪事に思いを馳せると、無性に泣きたくもなる」(文庫版p.13)

 「これからの生活の不安を現実逃避で上塗りしつつ、しかしそれも袋小路に迷いこんで、もう何もかもがどうしようもない、自分の部屋に戻って布団に潜りたい」(文庫版p.30)

 つまらない雑用をこなす虚しさを耐え忍び、古アパートに帰れば、あまりの寒さに頭から布団をかぶって震えながらひたすら朝を待つだけのイリエ。救いは、ハロゲンヒーター。

 「頭のてっぺんからヒーターの暖気にあずかっていると、うれしくて涙が出そうで、そのまま泣いてしまおうかとも思ったが、二十八にもなって何がハロゲンがあったかくて泣きそうだよ、と考え直し、逆にがっくりきた」(文庫版p.39)

 「よくわからない理由でこんなとこに飛ばされて、そんなふうに会社に見くびられたって、働かなければいけない。帰るところはないから。(中略)今まで、そんなこというもんじゃないよ、と言ってくれた男の人はいた。皆いい人だったし、彼らが正しいことはわかっていた。けれどこみ上げるように、あなただって大切にされてきたんだろう、これからもそうなんだろう、とねじ込みたくなることがあり、そうしないために、いつも自分から距離を置いてきた。申し訳なかった」(文庫版p.67)

 切ない。

 そんなイリエが、元気を出すために思い付いたのが、仮想好き。つまり、手近な男を「好きになった」と仮定して行動してみる、という遊びだった。恋愛の面倒くさいところをカットして、何かこう、効用だけを期待する。

 そういうわけで、「ブログを書いていたら読むだろうけど、付き合いたいかというとそれは謎」(文庫版p.43)である森川なる男の健康診断票をコピーしたり、彼がパートの女性と話していた内容を調査したりと、カソウスキを進めるイリエ。

 「アプローチの仕方が間違っているような気がしないでもなかった」(文庫版p.44)、「わたしがしているのは、好きごっこというより興信所ごっこではないかとたまに思うが、それには気付かないふりをしているイリエだった」(文庫版p.45)

 観察しているうちに、自分に何か「悪いこと」があった日には、森川にはささやかな「いいこと」が起きていることに気付くイリエ。ある日、商店街のくじ引きで一等賞を引き当てたとき、イリエはとっさに走って逃げる。必死で。息を切らして。

 「自分にいいことがあってはいけないと思ったのだった。(中略)自分にいいことがあっては森川に悪いことが起ってしまうと考えたのだった」(文庫版p.88)

 ヒロインが必死で走る場面が登場する恋愛ドラマは数多いのですが、ここまでいじましく、切なく、滑稽な、そんなクライマックスは他にないと思う。胸にじんと来ます。


『Everyday I Write A Book』

 好きだった男の結婚相手のブログを読むのが習慣になってしまい、止めようと思っても止められない野枝。

 職場で上司からパワハラまがいの嫌がらせを受け、何をする気もおきず、連帯感を感じていた部下にまで八つ当たりしてしまった野枝。もうどうしようもなくなって、つい習慣で例のブログを読んでしまう。新婚で、仕事も順調らしく、明るく華やかな彼女の「正しい」言葉を。

 『やっぱり、日常を愛でるように生きていかないと駄目ですね。そうでないと、生きている意味がないですよね』(文庫版p.126)

 「野枝は、深い溜め息をついて、頭を何度か抱えなおし目をつむった。すすり泣く声が自分のものとは思えず、しかし喉に詰まる痛みは現実のものだったので、手で口を塞いだ。涙は後から後から溢れてきて、野枝の頬を汚した。もう化粧を直す気力も残っていないのに」(文庫版p.126)

 職場のいじめ。見なければいいのに、読んでもろくなことがないと分かっているのに、ついつい見てしまうネット上の言葉。これまた強い共感を呼ぶ話です。

 そんなどん詰まりの野枝にも、付き合っているんだかいないんだか微妙な男友達がいます。残業後に会っても、夜10時になるとさっさと帰ってしまう彼。野枝が助けを求めて自宅にやってきた夜、彼はついにその秘密を明かしてくれるのですが、それは脱力というか何やそれ、なもので……。

 
『花婿のハムラビ法典』

 「そこでハルオは決意したのだった。サトミの不義理と自分の不義理の回数を合致させようと。そこまではいかなくとも、せめて月間平均不義理回数を、三ポイント差までには縮めようと」(文庫版p.154)

 割とルーズなところのある恋人に振り回され気味なハルオが、「目には目を」方式による、こまめでいじましい報復を律儀に実行する。彼女が遅刻した分だけ、次回は自分も遅れていく。デートをドタキャンされたら、自分だって。

 「問題は、サトミが時々、ハルオには到底返しきれないほどのボーナスポイントを稼いでしまうことだった」(文庫版p.156)

 恋人からあまりに理不尽な目に合わされ、こんな巨大なボーナスポイントを返すにはどうすればいいのか、途方にくれるハルオ。悩むポイントはそこなのか?


タグ:津村記久子
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0