『猫キャンパス荒神(前篇)(「すばる」2012年3月号掲載)』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]
シリーズ“笙野頼子を読む!”第59回。
待ちに待った、笙野頼子さんの一年ぶりの新作。正式タイトルは、『神変理層夢経3 猫文学機械品 猫キャンパス荒神』その前篇です。これは序章含め全六部を予定している大作『神変理層夢経』という小説の第三部にあたります。
ここで復習しておきますと、これまでに発表された『神変理層夢経』は次の通りです。
『猫トイレット荒神(前篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品その前篇 猫トイレット荒神』
2010年7月 「文藝」2010年秋号掲載
序章の前篇
『猫ダンジョン荒神(前篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(前篇)』
2010年8月 「すばる」2010年9月号掲載
第二部の前篇
『猫ダンジョン荒神(後篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(後篇)』
2010年9月 「すばる」2010年10月号掲載
第二部の後篇
2010年9月に発表された『新作予定おんたこ今後猫未来未定』(「群像」2010年10月号掲載)において、序章含め六部作になること、第三部のタイトルは『猫ストリート荒神』を予定していること、などが明らかにされました。
『地神ちゃんクイズ』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品その中篇 割り込み託宣小説 地神ちゃんクイズ』
2010年10月 「文藝」2010年冬号掲載
序章の中篇
『一番美しい女神の部屋』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品 完結篇 一番美しい女神の部屋』
2011年1月 「文藝」2011年春号掲載
序章の後篇
この、『一番美しい女神の部屋』の、あまりにも「天国」的なクライマックス、様々な神の声がポリフォニー的に響きわたるなか、さりげなく書かれている
「九月十七日自宅にて、飼い主の膝の上で。」
(「文藝」2011年春号 p.245)
という言葉。
ずっとドーラ(作者の愛猫、というより伴侶。作中では「ドラ」)の老猫介護について書き続けてきた小説に、目立たないようにそっと置かれたその「声」に慄然とした読者も多いことでしょう。私も不安でいっぱいになりました。作者は大丈夫だろうか。それでも書き続けられるのだろうか。
そして、襲ってきた大震災。
生存確認と思しき短い随筆を発表した後、長いこと休筆が続きます。こちらとしては、それこそ祈るような気持ちで「託宣」を待ち続けたのでした。
一年の休筆期間を経て、ようやく新作が発表されました。それが本作、『神変理層夢経3 猫文学機械品 猫キャンパス荒神』その前篇というわけです。予告されていたタイトルから変更されました。
「心は一枚の紙のようになった。それでも私の言葉は動き続けている」
(「すばる」2012年3月号p.68)
冒頭から泣ける。泣けます。同時に、読む覚悟を求められます。
書くということ、降ってくる多数の神々の声を「アレンジメント」することについて。
続いて、小説内小説の形で「荒神様」の解説が入り、これまでの作品を巻き込んでゆきます。
まず前作『人の道御三神といろはにブロガーズ』とリンクされます。これまで漠然と「親子」としか書かれていなかった、人の道御三神と荒神様の関係をかなり詳しく説明。にに。
続いて、『S倉迷妄通信』以降の作品が次々と習合してゆきます。スクナヒコナに祈っていたときも、金毘羅になったときも、萌神に助けられたときも、海底から大精霊がやってきたときも、いつも見守っていた荒神様。(基本的に見守るだけです)
新作が出る度にこれまでの作品がごっそり習合してくることで、すべてひっくるめて一つの作品として成長してゆく、というのは読者にとってはお馴染みの現象なんですが、今回はかなり大規模。要刮目です。
『神変理層夢経』の序章と第二部まで到達したところで小説内小説は終わり、続きは沢野千本の「声」に引き継がれることに。
ドラの死、論敵(というか単なるストーカー)の粘着、そして大学院で授業を始めたこと(タイトルが『猫キャンパス荒神』となったのはこのためでしょう)、などが語られます。
「小説の意図を超えて、声が語るようになる事はどんどん私を乗っ取る」
(「すばる」2012年3月号p.122)
一人称のゆらぎ、多声法、託宣など、自作についての内省と洞察へと展開してゆくラストは、本作そのものの読書ガイドにもなっています。おかげで、これまで読んでいて混乱していたことが割とすっきりしたようにも。序章から改めて読み直したくなりました。
全体から感じられるライブ感というか、連載が進むにつれて変化してゆく様が印象的です。全体としては凄絶なほどシリアスなのに、ときどき、リズムとユーモアでどうしても笑ってしまう表現が飛び出してくるのがまた凄い。
この先どうなってゆくのか。どきどきしながら、とりあえず後篇を待ちます。
「見知らぬ方々の不幸と彼らへの申し訳なさに心はどうしても占められている。ただ、ごく最近一周忌を目前にして、やはり私は次第に、ごく軽く、気付き始めている。
記憶は一緒にいる。心も一緒にいる。ずっと変わらない。でもドラはいないと」
(「すばる」2012年3月号p.124)
最後まで泣けます。
待ちに待った、笙野頼子さんの一年ぶりの新作。正式タイトルは、『神変理層夢経3 猫文学機械品 猫キャンパス荒神』その前篇です。これは序章含め全六部を予定している大作『神変理層夢経』という小説の第三部にあたります。
ここで復習しておきますと、これまでに発表された『神変理層夢経』は次の通りです。
『猫トイレット荒神(前篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品その前篇 猫トイレット荒神』
2010年7月 「文藝」2010年秋号掲載
序章の前篇
『猫ダンジョン荒神(前篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(前篇)』
2010年8月 「すばる」2010年9月号掲載
第二部の前篇
『猫ダンジョン荒神(後篇)』
正式タイトル『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神(後篇)』
2010年9月 「すばる」2010年10月号掲載
第二部の後篇
2010年9月に発表された『新作予定おんたこ今後猫未来未定』(「群像」2010年10月号掲載)において、序章含め六部作になること、第三部のタイトルは『猫ストリート荒神』を予定していること、などが明らかにされました。
『地神ちゃんクイズ』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品その中篇 割り込み託宣小説 地神ちゃんクイズ』
2010年10月 「文藝」2010年冬号掲載
序章の中篇
『一番美しい女神の部屋』
正式タイトル『小説神変理層夢経・序 便所神受難品 完結篇 一番美しい女神の部屋』
2011年1月 「文藝」2011年春号掲載
序章の後篇
この、『一番美しい女神の部屋』の、あまりにも「天国」的なクライマックス、様々な神の声がポリフォニー的に響きわたるなか、さりげなく書かれている
「九月十七日自宅にて、飼い主の膝の上で。」
(「文藝」2011年春号 p.245)
という言葉。
ずっとドーラ(作者の愛猫、というより伴侶。作中では「ドラ」)の老猫介護について書き続けてきた小説に、目立たないようにそっと置かれたその「声」に慄然とした読者も多いことでしょう。私も不安でいっぱいになりました。作者は大丈夫だろうか。それでも書き続けられるのだろうか。
そして、襲ってきた大震災。
生存確認と思しき短い随筆を発表した後、長いこと休筆が続きます。こちらとしては、それこそ祈るような気持ちで「託宣」を待ち続けたのでした。
一年の休筆期間を経て、ようやく新作が発表されました。それが本作、『神変理層夢経3 猫文学機械品 猫キャンパス荒神』その前篇というわけです。予告されていたタイトルから変更されました。
「心は一枚の紙のようになった。それでも私の言葉は動き続けている」
(「すばる」2012年3月号p.68)
冒頭から泣ける。泣けます。同時に、読む覚悟を求められます。
書くということ、降ってくる多数の神々の声を「アレンジメント」することについて。
続いて、小説内小説の形で「荒神様」の解説が入り、これまでの作品を巻き込んでゆきます。
まず前作『人の道御三神といろはにブロガーズ』とリンクされます。これまで漠然と「親子」としか書かれていなかった、人の道御三神と荒神様の関係をかなり詳しく説明。にに。
続いて、『S倉迷妄通信』以降の作品が次々と習合してゆきます。スクナヒコナに祈っていたときも、金毘羅になったときも、萌神に助けられたときも、海底から大精霊がやってきたときも、いつも見守っていた荒神様。(基本的に見守るだけです)
新作が出る度にこれまでの作品がごっそり習合してくることで、すべてひっくるめて一つの作品として成長してゆく、というのは読者にとってはお馴染みの現象なんですが、今回はかなり大規模。要刮目です。
『神変理層夢経』の序章と第二部まで到達したところで小説内小説は終わり、続きは沢野千本の「声」に引き継がれることに。
ドラの死、論敵(というか単なるストーカー)の粘着、そして大学院で授業を始めたこと(タイトルが『猫キャンパス荒神』となったのはこのためでしょう)、などが語られます。
「小説の意図を超えて、声が語るようになる事はどんどん私を乗っ取る」
(「すばる」2012年3月号p.122)
一人称のゆらぎ、多声法、託宣など、自作についての内省と洞察へと展開してゆくラストは、本作そのものの読書ガイドにもなっています。おかげで、これまで読んでいて混乱していたことが割とすっきりしたようにも。序章から改めて読み直したくなりました。
全体から感じられるライブ感というか、連載が進むにつれて変化してゆく様が印象的です。全体としては凄絶なほどシリアスなのに、ときどき、リズムとユーモアでどうしても笑ってしまう表現が飛び出してくるのがまた凄い。
この先どうなってゆくのか。どきどきしながら、とりあえず後篇を待ちます。
「見知らぬ方々の不幸と彼らへの申し訳なさに心はどうしても占められている。ただ、ごく最近一周忌を目前にして、やはり私は次第に、ごく軽く、気付き始めている。
記憶は一緒にいる。心も一緒にいる。ずっと変わらない。でもドラはいないと」
(「すばる」2012年3月号p.124)
最後まで泣けます。
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