『連句遊戯』(笹公人、和田誠) [読書(小説・詩)]
念力短歌の笹公人さんと、俳句もたしなむイラストレーター和田誠さんが組んで作った連歌が単行本にまとまりました。二人で交互に詠んだ「歌仙篇」と、それを解説しあう「解説対談篇」、それを挟む和田誠さんの「まえがき」と笹公人さんの「あとがき」、さらに和田誠さんがデザインした風格あふれる装丁(これが素晴らしい)という、何とも贅沢な一冊です。単行本出版は2010年7月。
和田誠さんは70代、笹公人さんは30代。親子ほど年の離れた二人(というか「まえがき」によると、和田誠さんの息子さんと笹公人さんは本当に同じ学校の同窓生だったそうです)がどんな連歌をうたったのでしょうか。冒頭はこうです。
遠ざかるネッシーの尾や春の窓(笹公人)
騒ぐ水あり笑う山あり(和田誠)
春雷に海底のムー浮かび出て(笹公人)
大停電は地上を覆い(和田誠)
いきなりネッシーにムー大陸ですからね。さすがです。もちろん、ごく普通の情景をうたった箇所もありますが、たいていは金星人やら怪盗やらピラミッドやらモスラやらの風情が題材になっています。
個人的に気に入った箇所をいくつか書き写してみます。本当は連歌というのはつながりと流れ(「付合」っていうんですか)が大切なので、一部だけ切り出すのは適切ではないのかも知れませんが。
裏庭に電球を割る姉妹いて(笹公人)
スカラベ一つ這い出してくる(和田誠)
稲妻や座敷わらしの帰り道(笹公人)
見上げる空に満月ふたつ(和田誠)
軽石や一反もめんの背をこする(笹公人)
義理で吼えてる唐獅子牡丹(和田誠)
冬館御先祖たちが起き出して(和田誠)
門前掃くは仙童寅吉(笹公人)
止められぬ雪崩のごとくボレロ弾く(和田誠)
切れた弦から生まれる蕾(笹公人)
幻想と怪奇とオカルトが一緒に遊んでいるような何とも言えない雰囲気。実に楽しい連歌です。
その後に収録されている「解説対談篇」ですが、それぞれ自作を解説してくれる(ときどき映画談義になったり話が横にずれていったりして、それもまた興味深い)のですが、作者の意図とは全く違う読みをしていたことに気付いたり、色々と驚きがあって面白いのです。例えば。
大統領そこのけヨン様御到着(和田誠)
姿見えぬと唾を吐くひと(笹公人)
情景が目に浮かぶようで可笑しいのですが、解説によると笹公人さんは「ぺ・ヨンジュン」の「ペ」にかけて「唾を吐く」と詠んだのだそうで、あっ、それは気がつかなかったなあ。
世代間の発想の違いにも興味深いものがあります。例えば。
赤ん坊の掌の中にある犬の文字(和田誠)
夢にほほえむ里見家の姫(笹公人)
和田誠さんは前句の意味を説明してないのですが、おそらく赤ん坊の初参りのときに額に「犬」の字を書いて病気封じをする、という昔の風習から連想されたものだと思います。今では廃れてしまった古い風習ですが(宮崎県には今でも残っているそうです)、70代で西日本生まれの和田誠さんにとっては常識的なことではないでしょうか。
それに対して笹公人さんはためらいなく「赤ん坊に犬の文字ときたら、「南総里見八犬伝」しかありません」と断言。世代間格差があらわに。
私もまず八犬伝を連想したので、その点については笹公人さんに共感を覚えるのですが、しかし「僕らの世代では、「里見八犬伝」といえば角川映画の薬師丸ひろ子です」と語る30代には違和感を覚えますね。八犬伝といえば、坂本九ちゃんでしょう。因果は巡る糸車、巡り巡って風車。いざとなったら玉を出せ。ええ、私は40代です。
他にも和田誠さんが「仙童寅吉」を知らなかったりして、澁澤龍彦とかあの辺を読みあさった世代との差を感じさせたり。あるいは、和田誠さんが「理力」という言葉を使ったのに対して、笹公人さんが「一九七七年のシリーズ最初の映画公開時の訳語ですね。いまは「フォース」で統一されているようです」とすかさず指摘したり。
こんな具合に、連歌が楽しく、解説がまた楽しい。一粒で二度美味しいばかりか、読者の世代によって様々に「読み」が異なるであろう好著です。若者からお年寄りまで、全世代的に広く読まれるといいなあ。
和田誠さんは70代、笹公人さんは30代。親子ほど年の離れた二人(というか「まえがき」によると、和田誠さんの息子さんと笹公人さんは本当に同じ学校の同窓生だったそうです)がどんな連歌をうたったのでしょうか。冒頭はこうです。
遠ざかるネッシーの尾や春の窓(笹公人)
騒ぐ水あり笑う山あり(和田誠)
春雷に海底のムー浮かび出て(笹公人)
大停電は地上を覆い(和田誠)
いきなりネッシーにムー大陸ですからね。さすがです。もちろん、ごく普通の情景をうたった箇所もありますが、たいていは金星人やら怪盗やらピラミッドやらモスラやらの風情が題材になっています。
個人的に気に入った箇所をいくつか書き写してみます。本当は連歌というのはつながりと流れ(「付合」っていうんですか)が大切なので、一部だけ切り出すのは適切ではないのかも知れませんが。
裏庭に電球を割る姉妹いて(笹公人)
スカラベ一つ這い出してくる(和田誠)
稲妻や座敷わらしの帰り道(笹公人)
見上げる空に満月ふたつ(和田誠)
軽石や一反もめんの背をこする(笹公人)
義理で吼えてる唐獅子牡丹(和田誠)
冬館御先祖たちが起き出して(和田誠)
門前掃くは仙童寅吉(笹公人)
止められぬ雪崩のごとくボレロ弾く(和田誠)
切れた弦から生まれる蕾(笹公人)
幻想と怪奇とオカルトが一緒に遊んでいるような何とも言えない雰囲気。実に楽しい連歌です。
その後に収録されている「解説対談篇」ですが、それぞれ自作を解説してくれる(ときどき映画談義になったり話が横にずれていったりして、それもまた興味深い)のですが、作者の意図とは全く違う読みをしていたことに気付いたり、色々と驚きがあって面白いのです。例えば。
大統領そこのけヨン様御到着(和田誠)
姿見えぬと唾を吐くひと(笹公人)
情景が目に浮かぶようで可笑しいのですが、解説によると笹公人さんは「ぺ・ヨンジュン」の「ペ」にかけて「唾を吐く」と詠んだのだそうで、あっ、それは気がつかなかったなあ。
世代間の発想の違いにも興味深いものがあります。例えば。
赤ん坊の掌の中にある犬の文字(和田誠)
夢にほほえむ里見家の姫(笹公人)
和田誠さんは前句の意味を説明してないのですが、おそらく赤ん坊の初参りのときに額に「犬」の字を書いて病気封じをする、という昔の風習から連想されたものだと思います。今では廃れてしまった古い風習ですが(宮崎県には今でも残っているそうです)、70代で西日本生まれの和田誠さんにとっては常識的なことではないでしょうか。
それに対して笹公人さんはためらいなく「赤ん坊に犬の文字ときたら、「南総里見八犬伝」しかありません」と断言。世代間格差があらわに。
私もまず八犬伝を連想したので、その点については笹公人さんに共感を覚えるのですが、しかし「僕らの世代では、「里見八犬伝」といえば角川映画の薬師丸ひろ子です」と語る30代には違和感を覚えますね。八犬伝といえば、坂本九ちゃんでしょう。因果は巡る糸車、巡り巡って風車。いざとなったら玉を出せ。ええ、私は40代です。
他にも和田誠さんが「仙童寅吉」を知らなかったりして、澁澤龍彦とかあの辺を読みあさった世代との差を感じさせたり。あるいは、和田誠さんが「理力」という言葉を使ったのに対して、笹公人さんが「一九七七年のシリーズ最初の映画公開時の訳語ですね。いまは「フォース」で統一されているようです」とすかさず指摘したり。
こんな具合に、連歌が楽しく、解説がまた楽しい。一粒で二度美味しいばかりか、読者の世代によって様々に「読み」が異なるであろう好著です。若者からお年寄りまで、全世代的に広く読まれるといいなあ。
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