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『きのこ文学大全』(飯沢耕太郎) [読書(教養)]

「きのこ愛の世界を明かす初の人文系菌類学入門」

「洋の東西やジャンルを越境する大きのこ狩りの収穫」

 帯に書いてある宣伝文句のインパクトと意味不明さに戸惑い、これはいったい何なのかと首をひねりながら手に取りましたが、いや凄い本でした。

 きのこをこよなく愛し、「きのこ文学研究家」を名乗る著者が、古今東西あらゆる書物から「きのこが登場するシーン」だけを抜き出しコレクションした目録です。

 日本の古典から海外現代文学まで、本格ミステリからサイバーパンクSFまで、白土三平から吾妻ひでおまで、チャイコフスキーから筋肉少女帯まで、国際きのこ会館から「珍しいキノコ舞踏団」まで、種類や分類など頭から無視して、とにかく「きのこに関係する」という観点だけから選ばれた作品の無秩序な乱舞。壮観であります。

 最初の「きのこ文学宣言」からして、「文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である」と力強く断言し、おそらく大半の読者を置いてきぼりにしたまま疾走を開始。

 一般的な評価や文脈や歴史的位置づけなど全て無視、ひたすら「きのこをどう描いているか」という観点でのみ作品を評価する姿勢は実に清々しいものがあります。そこには、官能小説に出てくる「きのこ」と、ゲーテが人生の比喩として用いた「きのこ」に、何の差異もないのです。

 宮沢賢治については「泉鏡花とともに日本でも有数の「きのこ文学」の書き手といえるだろう」と高く評価する一方、村上春樹については「彼は「きのこ文学」には縁の遠い作家であるというべきだろう」と厳しく批判するという具合。

 もちろん著名人も全て「きのこにどのように関わったか」という観点でのみ記載されています。例えば、ダーウィンはフェゴ島で新種のキノコを発見した人であり、彼の業績について書かれているのはそれが全てです。

 同様に、チャイコフスキーはきのこ狩りのとき地面に覆い被さって「全部俺のだ!」と叫んだ人。ムソルグスキーは『きのこ狩りの歌』を作曲した人。仏陀はきのこ中毒で死んだ人。ビアトリス・ポターはきのこ画を300枚ほど描いた人。ファーブルはきのこ画を700枚ほど描いた人。

 個人的に笑ったのは、「コティグリーの妖精写真」のうち1916年7月に撮影された一枚についての解説で、「左下にぼんやりと「きのこ」が見える」とのこと。そこですか。

 巻末には「きのこ名」による索引もついており、例えば突発的に「ササクレヒトヨタケが出てくる小説を読みたい!」という衝動にかられたときなど、すぐにそのシーンがある書物を見つけることが出来るわけです。便利ですね。

 「あとがき」によると、著者は今や「本のタイトルを見ただけで、これは怪しい、と思って中身を見ると、たしかにきのこについての記述がある」というところまで精進しているそうで、「将来は決定版『きのこ文学大全』を編んでみたい」などと口走っており、こいつ幻覚きのこでも摂取したんじゃないかと心配、ではなくてそのひたむきな姿勢にこうべを垂れる思いがします。

 通して読むと、紙面から菌糸がうにょうにょ伸びてきて目から脳へ抜けるような気分になってくる、著者の「きのこ」に対する愛にあふれた全編きのこ漬けのマタンゴ本です。きのこをこよなく愛する方は必読でしょう。

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