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『猫道 単身転々小説集』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]


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芸術でご飯を頂いていくというひとり暮らしの道を、歩かざるを得ぬ、その道の入り口、猫はふと出現し、私を選んだ。そこには、猫とともに歩く猫道が開けていた。
(中略)
 稼げず、仕送りを受けて家族からも嫌われて、筆での自活は三十半ばから。猫はそんな私を人間にした。器としての、書くだけの機械にはしておかなかった。
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文庫版p.10、11


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第110回。

 京都から八王子、小平、中野、雑司ヶ谷、千葉の佐倉。追い立てられるように転居を繰り返す「居場所もなかった」時代、猫との出会い、そして別れ。猫とともに歩んできた作家の軌跡を浮き彫りにする中短篇集。文庫版(講談社)出版は2017年3月です。


[収録作品]

『前書き 猫道、――それは人間への道』
『冬眠』
『居場所もなかった』
『増殖商店街』
『こんな仕事はこれで終りにする』
『生きているのかでででのでんでん虫よ』
『モイラの事』
『この街に、妻がいる』
『後書き 家路、――それは猫へ続く道』
解説『隣の偉人』(平田俊子)
年譜:山崎眞紀子
著書目録:山崎眞紀子


『前書き 猫道、――それは人間への道』
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――かつて、私が人類ではなく、器に過ぎなかった時、猫はいなかった。だけれどもやはり私はその時からずっと続いている。
 しかし猫と出会ってこそ人間になった。人が家族のために頑張る事を理解し、人間がひとつ屋根の下で眠る事さえも、単なる不可解、不気味とは思わなくなった。猫といてこそ緊張があり、欲望が湧き、しかも常に夢中でなおかつ、闘争の根拠、実体を得た。
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文庫版p.9

 かつて「凍える器でしかなかった」そして「居場所もなかった」作家は、猫と出会ってどのように変わったのか。本書全体を「猫道」の記録としてまとめる前書き。


『冬眠』
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 冬の鯉のように遅い代謝で、死なぬように死なぬようにとアルコールを使って眠り暮らしながら、Yは“中心のない生”という事を考え始めていた。(中略)Yには地上も人間もそこにある規則も判らなかった。世界は、Yには恐ろしい災害に過ぎなかった。
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文庫版p.25

 苛烈な生きにくさを抱え、凍える深海生物のように生きていた京都の「Yの時代」。まだ猫とは出会っておらず、部屋の他には何もない“中心のない生”を送る苦しみを幻想的に描いた作品。


『居場所もなかった』
――――
 閉ざされた空間で時間を止め、ヌイグルミと暮らしてドッペルゲンガーを見る。抽象観念を核に置いて、皮膚と脳の剥き出しの感覚だけを推進力にして小説を書く。――現実の気配は作品ばかりではなく、思考実験に縋って生きている私の、生活をも、脅かした。
(中略)
 どこにもない場所、誰も来ない場所、地元の住人から顔も名も住処も知られないで生きられる部屋……人が、ひとつの部屋を選ぶ時、そこを自分が住むにふさわしいと考える時、そこには大抵ひとつやふたつの幻想が紛れ込んではいるが。それがたまたま私の場合オートロックだった。
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文庫版p.124、125

 住み慣れた八王子の部屋を何の説明もなく追い出されることになった作家。新たな住処探しは難航し、自分にはどこにも居場所がない、という事実を突きつけられる。事情を説明しても男の編集者は「誰もこんなに困ったりしませんよ」「どうしてたかが部屋ひとつで」「大抵の人が簡単に通り過ぎるところでどうしていちいちこんなに問題が起こったり考え込んでしまったりするんですか」(文庫版p.110、156)という具合に、まったく分かってくれない。マジョリティに理解されない苦しみを抱えて理不尽な「不動産ワールド」を彷徨う作家。

 存在することで「経済効率の足を引っ張る」人間から居場所を奪ってゆく社会システム。異様な疲れやすさ痛さ関節の腫れなどの症状。とっさに口から出た「そろそろ猫の飼えるところに越したいので」(文庫版p.86)という言葉。すべてが後の作品にスムーズにつながってゆくというか、歳月を越えた一貫性に戦慄を覚えます。


『増殖商店街』
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 猫が私の足に耳と頭と尾を擦りつけてくる。場所につくという猫、私は場所か。私の足は私と知りあったばかりの頃、いつも御飯を食べた電柱のあたりのように親しみ深いだろうか。気が付くと猫が二匹になっている。まったく同じ模様の同じ大きさの猫、現実に飼っているのは雌の猫なのだが、一匹は雄だ。分裂したわけではないのだろう。いや、雌がふたつに分裂すると一匹は雄になるのだろうか。雄の印は分裂を誤魔化すために出来てきたのか。と思うと、ああこれが本物の重い暖かい猫だ、という存在感のある大きなシルエットがいきなり視界を横切って腹にずぼっとめりこみ、次々来る衝撃とともに元気良く進む。小さい丸い足が私の油断した腹を押さえて移動していく。咳込んで目を開ける。隙を見れば枕に上がろうとする現実の猫キャト。
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文庫版p.240

 中野のワンルームマンションに引っ越した作家は、そこで最初の猫、キャトと出会う。夢のなかで買い物に出かければ商店が次々と増殖してゆき、目が覚めるとそこにキャトがいる。ようやく居場所を見つけた安堵感。無理解な文学たたきに辟易しながらも、生活や買い物を楽しむ明るい作品。


『こんな仕事はこれで終りにする』
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猫の事をよく知っている人の本を読むと、保健所では、急な環境の変化に脅え苦しみながら、飼い主を待って鳴き続けた挙句「処分」されるという。また大抵の捨て猫は凍え死んだり虐殺されたりするらしいのだった。誰かにかわいがって貰うんだよ、と腐った芝居にはまって機嫌良く猫を捨てるやつもいるのだろうか、と想像し吐き気がして来た。私は取り返しの付かない感情に襲われていた。その猫を少しも好きではなかった。ただ喉が詰まる息苦しさに追い立てられて前の大切な自分の猫が入っていたペットキャリーを開けた。
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文庫版p.260

 キャトの失踪。どんなに探しても探しても消息が知れない。遠くの公園で捨て猫を見たと聞いた作家は、無駄だと分かっていながら自暴自棄のように寒空の下を歩いて公園に向かう。「バスもタクシーも使わずに歩いていったのは、どうせ違うだろうと思いそのまま歩いて倒れて死んでしまいたかったからだ」(文庫版p.255)。
 キャトとの別れ、そしてドーラとの出会いを描いた感動作。辛く、苦しく、何度読んでもその度に涙が出てきます。


『生きているのかでででのでんでん虫よ』
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 やっと引っ越せるようになったのにキャトはいない。ペット禁止の時はキャトがいてキャトがいない時はペットは解禁だ。キャトを失ってドーラを得た。ドーラがいるからキャトを思い出す事が出来る。蓋をしていた心が少しずつ癒されてただそれはごまかしの癒しでしかなく、ごまかしでもあればましなのが現世だといいながら何かぼやけている。気が付いたらキャトよりもドラの方が長くなっている。
(中略)
死んだらドラとキャトは私の現の中に入って来て、私はわたしで他の人達から見た夢とか記憶になってしまうのだと思う事と、今の猫を見て前の猫を思い出す事、猫を混ぜてしまう事で次第に私は治って行く。だが本質的には治らない。私は肯定的にゆっくりと死に近付いていく。私は引っ越す。
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文庫版p.300、302

 キャトを失った悲しみ、手のかかるドーラに噛まれる幸福、そして純文学論争。文学賞を得た作家は、ドーラを連れて新たな居場所に引っ越してゆく。そこで何が待っているのか、『愛別外猫雑記』の読者はすでによく知っています。


『モイラの事』
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焼き場で待っている時に生まれて初めて、ひとりでいる事が苦痛だと思った。それまではどんな時でもひとりでいたかったからだ。お通夜の時とお別れの時に号泣したのでもういいかと思ったがそれから四十九日あたりまで泣いたり寝込んだりふらふらしたりしていた。後悔しようにも防ぎようもなかった。それ故に考える事がなくて悲しみだけが来る。無常観と恐怖と、地獄のような感じ。ほんの数日前まで部屋で聴く雨の音が好きだったのに、その音が全部雷になって体に落ちて来る。
(中略)
 他の子がいる事が救いになった。それに書くことは出来る。文章は出るし文字は読めるのだ。つまり文章というものは自分の生死をも越えるもので自分で書いているのではないところがあるからだ。文が社会と絶望した人間とを繋ぐ魂の緒だからだ。
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文庫版p.317、319

 新たに出会った猫たちを保護するために佐倉の一軒家に引っ越した作家。猫四匹と共についに居場所を見つけたと思った矢先、モイラが急死してしまう。悲嘆に暮れながら、それでも文学は続いてゆく。


『この街に、妻がいる』
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 起きた時確かに信じられた。死んだ猫がモイラが近くにいる事を。ごく近いのだ。私が抜けてきた街もモイラのいる街だった。そしてその街は目が覚めた私のいる街でもあった。だけれどもそれは私が死に向かっているという事ではない。いつだってモイラはいる。ただ二本の筒のように、違う時間の流れの中にもういるのである。私とモイラの時間の筒はもう繋がらない。だけれどもモイラはいる。いつかは私もあの街に迷い込むけれど、それでもモイラがいるという事だけは今でも、生きていても、会えなくても、こっちにいても、感じられる。というかこれで私のいるところと「街」は繋がったのだ。
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文庫版p.338

 モイラなき日々を送る作家がみた、不思議な夢。知らない街で見かけた男がいう。
「自分は妻を探しにこの街に来る。会えないけど、いる。この街に妻がいる。」(文庫版p.338)
 後に書かれることになる『猫ダンジョン荒神』にも通じる作品。


『後書き 家路、――それは猫へ続く道』
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 それでは何の問題もないよい日々なのか。とんでもない、今のところはともかく、戦争が来るのなら止めなければならぬ。ただし「文学は一体何の役に立つの」と言っている変な人々に、別に私の本を読めなどとは言わない。どうせ戦争はそいつらが起こすのだ。
(中略)
 文学で戦争が止まるかどうか? 読みもせずに文句だけ言い、自分では止めようともしないやつが戦犯なのだと言いたい。
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文庫版p.344

 猫と共に歩んできた道、迫り来る戦前。さあ、文学で戦争を止めよう!
 最新作『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』(「群像」2017年4月号掲載)へとつながる後書き。


『隣の偉人』(平田俊子)
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 授業のない日に他の用事で大学にいくと、笙野さんの部屋に明かりがついていることがあった。ドアの向こうに笙野さんがいると思うと心が騒いだ。ノックすることは憚られた。自分の部屋に入り、この壁の向こうに笙野さんが今いることの僥倖を味わった。笙野さんの部屋に明かりがついていない日も、壁越しやドア越しに不思議な熱気が伝わってきた。
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文庫版p.354

 笙野頼子さんと同じ大学に同じ学年で在籍していた詩人の平田俊子さん。
「キャンパスを歩く笙野さんを見かけたことが何度かある」(文庫版p.347)
「前を通るたびに気になった。笙野さんが住んでいると知ってからは自転車で走るたびに笙野さんを探した」(文庫版p.351)
「わたしの研究室の隣が、笙野さんの研究室だった」(文庫版p.354)
などと、作品解説よりむしろ「笙野さんへの一方的な思いやささやかな関係を得意気に書いてきた」(文庫版p.354)と謙遜しておられますが、何だかうらやましい。



タグ:笙野頼子
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